「仙台と神戸の懸け橋に」-東日本大震災で被災、J1神戸・郷家友太
東日本大震災は11日で発生から8年を迎える。宮城県多賀城市出身のJ1神戸MF郷家友太(19)は当時、小学5年生だった。自宅や学校は高台にあったため津波の被害こそ免れたが、親友の母親ら近しい存在を亡くした。節目を翌日に控えた10日、昨季に続きユアテックスタジアム仙台で仙台-神戸戦が行われる。被災地同士の一戦を前に「仙台と神戸の懸け橋になれれば」と思いを語った。
「今でも鮮明に覚えています」-。11年3月11日。天真小に通っていた郷家は、いつもと変わらない日常を送っていた。「少し眠たくなっていた」。午後のまどろみの中にいた、6時間目の英語の授業中だった。突然、震度5強の揺れが襲った。「最初は小さかった揺れが、いきなり大きくなった」。机を教室の後方に下げていたため隠れる場所もなく、床にへばり付いて揺れの恐怖に耐えた。
電気、水道、ガスは止まり、携帯電話も通じなかった。「情報が入ってこないので津波も知らなかった」という。一夜明けて、周囲の様子を見に行こうと、父親と自転車で坂を下った。そこには「絶対にあるはずのない“水面”が広がっていた」。昨日まで街があった場所は、まるで“海”のようだった。
傾いたまま浮かんだ家や救助活動のボートを見つめながら、ようやく街が津波にのみ込まれたことを知った。遠く離れた港付近の工場火災の煙が、風に乗って頭上を通り過ぎていった。「海とガスの臭いが交じった独特の臭い」が鼻を突く。埃(ほこり)っぽい空気も、感じる全てが現実離れしていた。
悲しい別れもあった。当時所属していた仙台ジュニアのチームメートの母親が津波の犠牲となった。家族ぐるみの付き合いで何度も一緒に食事をした「仲のいいお母さん」だった。サッカーどころではない日々が続き、チームが練習を再開した頃には、震災から1カ月以上が過ぎていた。
6年生になった郷家は、仙台ジュニアの主将として県大会を勝ち抜き、全日本少年サッカー大会への出場を決めた。「かなり思い入れの強い大会だった」と、キャプテンマークやスパイクに「がんばろう東北」「がんばろう宮城」と記した。まだ小さかった背中に宮城を、東北を背負い、母を亡くしたチームメートのためにも戦い抜き、過去最高のベスト8まで勝ち進んだ。
「命っていきなりなくなってしまうんだ。普通の生活がどれだけ幸せなのか」。生きることの儚(はかな)さを知り、尊さを知った。くしくも阪神・淡路大震災に見舞われた神戸でプレーしている。チーム始動日の1月17日には犠牲者を悼んで選手、スタッフと一緒に黙とうをささげた。沖縄キャンプ中に行われたプロ野球楽天との合同懇親会では、2つの震災を収めた映像に見入り「お世話になっている2つの街の懸け橋のようになれれば」と決意を新たにした。
実家の周辺は震災前のにぎやかさを取り戻しているという。「そこだけ見れば復興は進んでいるように見えるけど、仙台空港の周りとか以前は住宅街だったところが、まだ更地のままか工事をしている」。帰省の度に目にする風景。震災の傷痕は、8年がたとうとしている今も残る。
節目を翌日に控えた10日、仙台で試合が行われる。昨年はベンチ外だったが、今季は開幕から2試合連続でベンチ入り。6日のルヴァン杯名古屋戦ではフル出場でチーム最多5本のシュートを放つなど存在感を示した。遠征帯同の可能性は高い。「お世話になった監督やコーチ、震災を一緒に乗り越えた仲間も来てくれる。選手として帰ってきて、大きくなった姿を見せたい」。秘める思いは誰よりも強い。