小嶺忠敏さん死去 大久保ら育てた名伯楽 マイクロバス自ら運転、情熱欠かさず半世紀
長崎・国見高サッカー部を指導して全国高校選手権を戦後最多タイの6度優勝に導いた元監督の小嶺忠敏(こみね・ただとし)氏が7日午前4時24分、肝不全のため長崎市内の病院で死去した。
小嶺忠敏氏は全国高校サッカー選手権で長崎・国見を戦後最多タイの6度優勝に導いた名将だった。半世紀以上、指導者として情熱を燃やした。「人として生きていく上での基本を、スポーツを通じて教えないといけない」。あいさつや礼儀を重んじ真摯(しんし)な姿勢で慕われた。
終戦直前に生まれ、7人きょうだいの末っ子として母子家庭で育った。農家でお金に余裕がなく、米のご飯を食べられるのは1年に10回ほど。「ハングリー(精神)があったからこそ、今の私がある。これがあるから、何事にも耐えてやることができる」と述懐した。
高校に行けなかった6人の兄たちが東京や大阪で商売し、捻出した費用で長崎・島原商高に進学。本格的にサッカーを始めた。大阪商業大を経て1968年に母校の高校に教師として赴任。部員13人からのスタートだった。
指導を始め、すぐ運転免許を取得した。寝る間を惜しんでマイクロバスを自ら運転して全国各地に遠征し、地方校のハンディを補った。「生徒に『ここが頑張りどきだ』と言っても、指導者が適当にやっていてできるはずない」。選手と寮で寝泊まりし、朝練習は一度も遅刻しなかった。
84年に赴任した国見高で87年度の全国選手権を初制覇。猛練習を課すだけでなく、選手の個性を伸ばす指導で、昨季引退した元日本代表の大久保嘉人氏ら多くの選手をプロに輩出した。「成長を見るのは人生でこの上ない光栄」と、教え子の活躍を何よりも喜んだ。
今冬の全国選手権は節目の第100回。2大会ぶりに出場した長崎総合科学大付高を監督として開幕直前まで指導し「選手権は夢のまた夢。大きなインパクトがありそうだよね」と笑顔で心待ちにしていた。今大会では一度もベンチ入りできなかったが、最後まで情熱は尽きなかった。