ペレさん死去 王様よ永遠に サッカー史上最高の選手逝く
サッカー元ブラジル代表で「王様」と呼ばれたペレさん(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)が29日、大腸がんの進行などによる多臓器不全のためサンパウロの病院で死去した。82歳。ワールドカップ(W杯)で史上ただ一人の3度優勝を経験し、サッカー史上最高の選手と称された。
W杯カタール大会で盛り上がった2022年の最後に世界が悲しみに包まれた。サッカー界を超越した「世紀のアスリート」ペレさんが82歳で生涯を終えた。
昨年9月に大腸の腫瘍を取り除く手術を受けて以降、入退院を繰り返し今年11月29日に再び入院していた。ペレさんのひつぎは来年1月2日、古巣のクラブ、サントスのホームスタジアムに運ばれ、同日午前10時(日本時間同日午後10時)から24時間、市民の弔問を受けるという。
現役時代は175センチ足らずながら高い身体能力を武器にシュート、ドリブル、パスの全てが一級品で、国際サッカー連盟(FIFA)選定の20世紀最優秀選手。ブラジルを名実ともに「王国」に押し上げ、所属するサントスをクラブ世界一に導いた。64年が過ぎても破られないW杯最年少得点記録も持つ不世出の「王様」だった。
サンバのリズムと驚きに満ちたプレーでシュートを決めて勝つ。W杯は17歳の58年大会で6得点を挙げて初優勝。決勝では伝説のゴールも奪った。相手ゴール前で大柄なDFと空中で競り合いながら左クロスを胸で落とし、もう1人のDFの頭上にボールを浮かせて背後に回ると落ち際を右足で蹴り込んだ。「私の強みであるひらめきで、とっさに決断を変えた」と回想した。
「背番号10」も代名詞。ゴールを奪い、アシストもするエースの番号として広まった。ドリブルで屈強なDFのタックルを次々とかわし、得点を量産。バナナシュートと呼ばれる、大きく曲がる直接FKも武器だった。
62年大会は負傷で2試合の出場だったが、2連覇。3度目の頂点に立った70年大会を含め、4大会で14試合12得点を記録した。ブラジル代表では歴代1位タイの通算77ゴール。生涯成績は1363試合で1281得点という大記録を持つ。
今回のW杯で活躍したスーパースターたちは次々と王様をたたえた。ブラジル代表の背番号10を受け継ぐネイマールは「ペレが登場する前、サッカーはただのスポーツだった。彼はサッカーを芸術に、エンターテインメントに変えた。彼が去っても彼の魔法は残る。ペレよ永遠に!」とインスタグラムにつづった。
ペレさんはW杯開催中の先月末に入院。優勝したアルゼンチンに病床からインスタグラムで祝福のメッセージを送っていた。アルゼンチン代表のメッシは「安らかにお眠りください」と悼んだ。
足跡は世界に計り知れない影響を与えた。ポルトガル代表のCロナウドは「何百万もの人々にインスピレーションを与え、今日も参考にされている」と功績を敬い、フランス代表のエムバペは「彼の残したレガシーは決して忘れられることはない」と強調した。
▼不滅のW杯記録
1958年スウェーデン大会でW杯に初登場し、準々決勝のウェールズ戦で初ゴール。17歳239日でW杯最年少得点記録。5日後の準決勝のフランス戦では最年少ハットトリック、その5日後には決勝に最年少で出場し2得点。いずれも今も残る不滅の記録だ。
▼21歳で「王様」に
62年にサントスを初の南米王者に導き、10月に世界クラブカップ(現クラブW杯)で欧州覇者のベンフィカ(ポルトガル)と敵地で対戦。3得点2アシストの大活躍で5-2の圧勝と初優勝を飾ると、リスボンの7万5千人の観客が「オ・レイ」(王様)の連呼で称賛し、定着した。
▼1000ゴール
69年11月19日、リオデジャネイロのマラカナン競技場で行われたバスコ・ダ・ガマ戦でPKを決め、通算1000ゴールの金字塔を打ち立てた。ブラジル政府は記念切手を発行して祝福。
▼史上初のW杯3度V
70年W杯メキシコ大会に向けて、不出場宣言を撤回。満を持して攻撃サッカーの先頭に立ち、4得点で史上初となる3度目の栄冠の主役となった。イタリアとの決勝での先制点は千両役者そのもの。他にも数々の名場面を演じてアシストも5を記録、務めを果たした。
▼「ペレ法」に尽力
引退後はその名声を武器に実業界に身を置き、CMにも多数出演した。95年にブラジルのスポーツ相に任命されて取り組んだのは、クラブに拘束されてきた選手の契約や移籍、クラブ経営などの近代化。退任後に施行された通称「ペレ法」で形となった。