川淵初代チェアマン 無理と言われたプロ化「覚悟があった」 Jリーグ30周年の思い出
Jリーグは15日に開幕30周年を迎える。初代チェアマンを務め、1993年5月15日の開幕戦・V川崎-横浜M(国立)で開会宣言をした現日本サッカー協会相談役の川淵三郎氏(86)が11日までにデイリースポーツのインタビューに応じた。Jリーグ設立時の思い出や、今後の課題などについて、変わらぬ熱い語り口で自らの考えを明かした。
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-30年前の5月15日に開会宣言を行った。当時を振り返って。
「開会宣言の時にスポットライトがぼくだけに当たっていて、歴史的な一日が始まったという印象だよね」
-国立での開幕戦にはいろいろな課題が。
「一つのオープニングゲームを、日本のみんなに見てもらうことで注目を浴びる。次の日(16日)に8クラブが試合をして2回注目を浴びる。ヴェルディとマリノス以外のチームは反対だったが、これは大成功だった」
-プロ化で一番難しかった部分は。
「1万5000人収容の競技場、ホームタウン…、当時の選手はサッカーを辞めても会社に勤められるから人生安泰というのが大半で、プロ契約はしたくなかった。結局はバブルの頂点だったことが味方したんだよね」
-当時もサッカーのプロ化は無理だと言う人は大勢いた。
「僕もそうだった。高いハードルを設定して越えるだけの実力、努力、気力。サッカーにはそれがあった。あとは覚悟だね」
-開幕後で一番危機的だった時期は。
「(1998年の横浜)フリューゲルスとマリノスの合併の2、3年前からチームの困難が始まって、その対応にすごく苦労した。完全消滅の危機が何クラブあったか」
-大変な時期を越えて、開幕当時の10クラブから今は60クラブに。
「30年前、『日本全国に100のJクラブがほしい』と言ったんだ。初めから僕は、そう願ってやっていた」
-クラブ名から企業名を取ったのも英断。
「この発想がなければ今のJリーグはないよ。何クラブかはつぶれていた」
-Jリーグの今後30年の課題は。
「新しいファン層が増えていないのは相当に問題だなと。プロとしての一番の価値は観客動員数。去年か一昨年か、プロ野球のヤクルトとオリックスの試合を見た時、ネット裏に若い女性がいっぱいいるのに驚いた。野球界も変わったなって。サッカーも、若い人の人気を集められるのに工夫しなきゃなと」
◆川淵三郎(かわぶち・さぶろう)1936年12月3日、大阪府高石市出身。元サッカー日本代表で、1964年東京五輪では強豪アルゼンチン戦でゴールを決めるなど8強進出に貢献。引退後は代表監督や強化委員長などを歴任し、プロリーグ発足に尽力。Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長(キャプテン)を務めた。バスケットボールでもBリーグ創設を主導。その後は日本トップリーグ連携機構会長、東京五輪・パラリンピック選手村村長などを歴任した。