神戸V 惜しみなく、恐れることなく出し切る。それが象徴 重なる創成期と今季 “ミスター神戸”永島昭浩氏

 シャーレを手にガッツポーズを見せる神戸・大迫勇也(左)と武藤嘉紀(撮影・山口登)
 引退試合でVゴールを決め、雄叫びを上げる永島=2000年11月26日、ユニバー記念競技場
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 「明治安田生命J1、神戸2-1名古屋」(25日、ノエビアスタジアム神戸)

 神戸が名古屋を2-1で退けて勝ち点68とし、連覇を目指した2位横浜Mに4差をつけ、最終節を残してリーグ初優勝を果たした。今季は毎試合後、大の字になり倒れ込む後輩らを見て、“ミスター神戸”永島昭浩氏(59)はヴィッセル草創期の自身らを重ねた。「惜しみなく、けがを恐れることなく出し切っている。それが象徴。それでこそ優勝をつかみ取ることができる」。阪神・淡路大震災からの復興を背負った不屈のストライカー、背番号「13」の魂は29年、受け継がれてきた。

 永島氏は神戸市出身。1995年1月17日、所属した清水の関係者から「神戸が大変だ」と電話があった時、夢を見ていた。「自分が震災を経験しているような、家が揺れて」と不思議な知らせが今も記憶に残る。「これも夢?」とうつろの中、現実と知って驚がくした。

 静岡から新幹線、特急と乗り継ぎ、大阪・難波からは車。がれきの中、道路を運転し、須磨区の実家に着いた時は夜中だった。「火の海で炎で周りが見えた」。線路は陥没し、自宅は全壊だった。

 両親はけがをしていたが、避難所の中学校で無事を確認。幼少期に遊んだ同級生や知人が犠牲となった。翌日から隣町のコンビニに行き、食料など生活必需品を車に詰め込み、避難所を往復した。

 「長田区の家や商店街が影も形も無くなった。子供のころ遊びにきた場所で、家と同時に多くの方々が亡くなっているのを受け入れがたかった。サッカーをして神戸の人を励ましたり、復興の力になるならありがたい」。95年途中、当時JFL(ジャパンフットボールリーグ)からJリーグ昇格を目指す神戸のオファーを快諾した。

 1年目は練習すらままならず、日替わりで企業の運動場、小学校の校庭などを借りる日々。勝負は加入2年目の96年で、主将を務めた。昇格が近づく1カ月前から現役最大の重圧に苦しんだ。

 「胃を痛めて軟便というか食事を消化できない。『結果を出さないと辞める』とも言い、自分で自分を追い詰めた」。10月27日の最終節で勝利し、JFL準優勝で昇格決定。自身も17ゴールを挙げて重責を果たした。

 「被災された方々に対して少しだけどいい仕事ができたという、充実感が大きかった」。喜びと安どの涙がとめどなくあふれた。

 神戸で日本選手初のハットトリックも決め、00年11月26日、引退試合の京都戦でも決勝ゴール。「サポーターもともに喜んで涙を流したりできた。神戸で生まれ育ち、神戸が中心。そこに関わる人と一緒に喜びたい」。引退から23年、愛する故郷で“ミスター神戸”が歓喜した。

 ◆永島昭浩(ながしま・あきひろ)1964年4月9日、神戸市須磨区出身。御影工(現神戸市立科学技術高)から1983年、松下電器(現G大阪)に入団。J開幕の93年に日本人初ハットトリックを達成。94年に清水に加入し、95年途中に神戸移籍。97年日本選手最多22点を挙げ、フェアプレー個人賞。2000年に現役を引退した。J1通算165試合61得点。日本代表は4試合出場。引退後は、日本協会(JFA)アンバサダーとしてサッカー普及に務め、スポーツキャスターとしても活動。長女の優美さんはフジテレビのアナウンサー。

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