【西野朗監督インタビュー】“反骨の西野流”は「マイアミの奇跡」低評価から
サッカーのW杯ロシア大会に臨む日本代表の西野朗監督(63)が14日までに報道陣の合同インタビューに応じた。W杯2カ月前に日本協会の技術委員長から就任。約3年ぶりの現場復帰で大舞台に挑む。96年アトランタ五輪ではブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こした。日本のクラブでは10年間の長期政権だったG大阪などで実績を残し、監督としてのJ1通算270勝は史上最多。W杯1次リーグ・コロンビア戦(19日・サランスク)を間近に控えた『監督・西野朗』の素顔に迫った。
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-久しぶりの現場復帰となるが。
「まあ、自転車に乗れたら一生自転車に乗れるでしょ?だから、自分の中で現場の感覚に対して少しブランクはあった。されど、すぐに感覚は思い出せる。いろんな選手に対してとかチームに対してとか。そういうのがよみがえってくる」
-技術委員長の時よりもしっくりくるか。
「(指導者になった91年から)四半世紀ああいう形でやってきたし。性には合っているかもしれない。自分の中ではずっとこう走ってきたんで。正直なところ、ピッチ上の方が(本来の)自分かもしれない」
-クラブの監督時代は、日本代表監督をどう見ていたか。
「なぜ日本人の監督がやらないのかな、やれないのかなと。まだまだやれないのかなという気持ちでいた。それは、プロのサッカー界が長いわけではないし、当初(J開幕の)93年から外国籍のプロ監督が来られたのは、そういう指導者を招聘(へい)して日本人指導者にプロ監督を見習えみたいなことかと。ただ、日本も非常に進化、発展してきて、そういう中で日本人の監督がやってもいいんじゃないかなと思いながら代表チームを見ていた」
-いずれは自分がという思いは。
「選手にも『代表チームに入って、自分の力をもっと高めていかないといけない。海外クラブからたくさんオファーがくる、そんな評価をもらう選手にならなきゃダメだよな』と言っていた。自分が代表監督を目指さないとか、海外のクラブでの指導を目標としていないことはおかしいなと。『俺もお前らと一緒に代表とか世界とか目指して、成長していかなきゃダメだよな』という話はしていた」
-G大阪時代の08年にはクラブW杯でマンチェスターUとも公式大会で対戦した。
「クラブが世界と対戦して体感できたことはものすごく(大きい)。FIFAの大会はこうだな、っていう感覚を初めて知ったステージだった。ものすごく財産。クラブにとっても選手にとっても自分自身にとっても。最高峰のクラブ・監督と対決できた。それはすべてがモチベーションになった」
-アトランタ五輪ではマイアミの奇跡を演出も、当時の技術委員会の評価は低かった。
「僕の(監督としてのイメージである)『超攻撃的な-』というのに至ったのは、その評価をもらっての反骨だった。当たり前じゃないですか。攻撃的にゲームを進めたい、ゴールに向かうとか。選手に対して『守り倒せ』『守り切れ』とは伝えていない。ただ、現実、ああいうゲームでそういう展開、戦い方になってしまうものもあったけど」
-日立での社会人時代はどんな仕事を。
「人事教育部。一番最初の仕事が(昭和)53年に配属されて女子採用係。会社説明会に行って説明してこい、って。『会社のこと何も知らない』っていうと『いやいや、お前がいればいいんだよ』と」
-ルックスで抜てきされた。
「知らないけど、取りあえず『お前がしゃべれ』と。毎年求人票持って○○の短大って。何年間かやっていた。志願者数?増えましたよ。でも、自社ビルがないから受かったはいいけど、みんなばらばらになって、だましているのかなっていう(苦笑)」
-W杯の勝負飯じゃないが、選手宿舎の食事で何かメニューのリクエストはあるか。
「僕は別にいい。ごまと山芋があれば。すりごま。それがないとクラブ時代もかなりイライラしていた(笑)。すってないと駄目。マイすりごま機もあるから。機械でもすれるハイブリッド式のがある」
-監督として譲れないものは。
「選手っていいところも悪いところもたくさん、いろんな面であるじゃないですか。プレーぶりにしてもキャラクターにしてもチームの中でも。選手をいろんな方向から見てあげることの大事さを感じていますね、一番。バツをつけるのは簡単。一瞬でもう使わないとか言う指導者もいるけど、そうじゃなくて。違うアプローチすれば変わる選手はたくさんいる。そういう見方は失いたくない」