元アイドルが弁護士に転身 平松まゆきさん12歳でCM、今は弱者救済を
元アイドルという異色の経歴を持つ大分県別府市出身の弁護士・平松まゆきさん(40)が今年1月、大分市内に事務所を開業した。どんな経緯で弁護士になり、いまどんな活動をしているのだろう。平松さんを訪ねてみた。
「先週は岡山、熊本、福岡、松江に行ってきました。ハンセン病訴訟の市民学会や裁判に出廷するためです」。そう語る平松さんは現在、昨年2月に熊本地裁に提訴されたハンセン病元患者家族国家賠償訴訟の原告弁護団の1人として東奔西走している。
ハンセン病元患者に対する国の隔離政策については2001年に違憲判決が確定し、国が元患者に対して補償を行なっているが、「差別を受けるなどして苦しんできた家族は、いまも救済の枠外に置かれています。ハンセン病に対する差別、偏見が根強く残っていることを痛感する日々です」と話す。
平松さんは1989年、12歳のころ菓子メーカー「東ハト」のCMモデルコンテストグランプリを獲得し芸能界入りした。17歳のとき「たかが恋よされど恋ね」で歌手デビュー。曲はテレビ番組「世界ふしぎ発見!」のエンディング曲になった。漫画「キューティーハニー」の劇場版映画の主題歌を担当したこともあり、多いときでラジオのレギュラー番組5本に出演した。
「芸能界では歌やトーク番組など、いろんなことに挑戦させて頂いて、中学高校時代は毎日が楽しかったです。でも、19歳になったとき、地元に帰ると同級生が大学生になっているのを見て、急に自分も大学で勉強したいと思うようになって」(平松さん)
受験勉強の末、20歳で立教大学文学部に入学。その後、学業に専念するため芸能活動はやめた。大学院卒業後、外資系製薬会社に入社。OLとして働いていたが、30歳になったころ、ふと思った。「私、これまで目の前の楽しそうなことにただ手を伸ばしてきただけで、どれも中途半端。これだけは頑張った、達成したということがなんにもない…」。そんなとき、たまたまあるドキュメンタリー番組を見た。1961年、三重県名張市で女性5人が亡くなった「名張毒ぶどう酒事件」で、再審を求める弁護士らの活動を記録したドキュメントだった。
「世の中には、自分のためではなく、こうも他人のために人生を賭けられる人たちがいるのか」と感銘を受けたという。その後、「何か資格をとろう」と思い立ったとき、そのことが頭の中でつながり、司法試験に挑戦してみることにした。「どれも中途半端な自分に試練を課そう」との思いもあった。
会社をやめ、学費を借金して名古屋大学法科大学院へ。最初に学んだ憲法ではマイノリティーがどのように個の権利を守ったかなどの判例を学び、法学の面白さにのめりこんでいった。しかし、「とにかく試験の範囲が膨大で、覚えられない、何がわからないかもわからない、やめたいという時期が何年も続いた」そうだ。
ただ、それでも諦めなかったのは、ハンセン病訴訟の弁護団共同代表を務める徳田靖之弁護士との出会いがあったから。大分で行われた徳田さんの講演を聞きにいったのがきっかけで、「声なき声に耳を傾け、いま何が起きているかを見極める姿勢を大切にしている徳田先生のような弁護士に自分もなりたい」との思いが募った。それが苦しくても投げ出さなかった大きなモチベーションとなった。1日15時間の猛勉強をしたこともあり、2015年に3度目の挑戦で司法試験に見事合格した。
大分でも女性の弁護士はまだ数少ないのが現状だが、「離婚、セクハラ、男女差別問題など、女性が気軽に相談できる法律事務所を目指したい」と平松さん。「アイドルだったのは遠い昔のほんの数年間ですが、物おじせずに話したり、人の話をよく聞いて相手に共感したりといったことは、そのときに基礎を培ったのかもしれません。アイドルも弁護士も、人を笑顔にする、幸せにしたいというゴールは同じ。これからも悩みを抱えている方々の話に真摯に耳を傾け、ともに寄り添っていける、そんな弁護士になりたいです」と語った。(デイリースポーツ特約記者 西松宏)