浅草で採れないのに「浅草のり」の謎…実は滅んだはずだった?
江戸の風情を今に残す粋な街「浅草」は、年間約3000万人が訪れる東京一の観光スポット。下町情緒いっぱいの浅草寺(せんそうじ)や仲見世通りで知られる一帯は、いつ来ても人だかりだ。そんな浅草で今話題なのが、浅草で採れないのになぜ「浅草のり」なのか?そこで雷おこしと並んで、浅草土産の定番である「浅草のり」の謎を追ってみた。
仲見世通りに目をやると、土産物屋が左右にずらりと並ぶ圧巻の光景。ここには、日本文化がぎっしり詰まっている。外国人観光客が多い訳だ。その仲見世の一角にある「いせ勘」は今も浅草のりを取り扱っているが、実際には浅草で海苔は採れないという。なぜなのか?ではまず、その歴史を振り返ろう。
1590(天正18)年、徳川家康が江戸に入府する以前、現在の東部地域は湿地と葦原であったとされる。そんな中で、浅草村は浅草観音(浅草寺)を中心に古くから栄えていた。この地は隅田川が海に注ぎ込んで海水がさかのぼる河口。海苔が自生しており、採れた海苔を漁民が浅草村の浅草観音の門前市で売っていた。養殖は江戸時代中頃になってから。大森付近の漁師たちが始め、卸問屋に売っていたとされる。
前述した海苔問屋「いせ勘」9代目店主の星野信行さんも「何代にもわたって浅草のりを取り扱っているが、確かに江戸時代には大森辺りで海苔が採れて、浅草寺の門前市で売っていたと聞いている。それも高級海苔として人気を呼んでいたそうだ」と証言。当時の「浅草のり」は江戸の名産として大いに栄えていたのだ。
ところが、ベトナム戦争が始まった1950年頃に東京湾の環境が激変。工場が立ち並び、大量の廃液が川に流れ込んだ。これによって、油の浸食などの被害を受け、伝統の「浅草のり」は滅んでしまった。しかし「いせ勘」には、途絶えたはずの浅草のりが今も存在している。
現在の産地について同社長は「千葉県のかずさ海苔という」と明かし「買っていく人もその品質の良さは認めてくれている」と説明する。「一度途絶えた浅草のりを、千葉の良質な海苔で再現した。現在も高級海苔として、すし屋さんを始め、各方面からの引き合いも多い」。産地こそ変わったが、品質や根強い人気は今も昔も変わらないとのこと。また、三重では最近になって絶滅の危機にあった品種「アサクサノリ」を復活させ「伊勢あさくさ海苔」として販売しているという。“浅草のり”は健在である。(デイリースポーツ特約記者・二階堂ケン)