長嶋一茂と立教大で中軸コンビの元プロ野球選手 “一茂イズム”の指導方針でソフトバンク上林ら輩出

 東京六大学野球の立教大時代は長嶋一茂さん(54)と中軸を組み、88年ドラフト6位で日本ハムに入団した矢作公一さん(53)を覚えているだろうか。現役はわずか3年ながら“西の香川”“東の矢作”と巨漢選手として親しまれた。現在は開校12年になる「Y・S・B野球塾」の塾長。同塾からはソフトバンクの上林誠知外野手(24)ら数多くの甲子園出場者を輩出する一方、オートレースの予想も好評だ。

 埼京線・西川口駅を下車、バスで川口オートレース場に向かうと120坪ほどの倉庫が見えてくる。この一角が「Y・S・B野球塾」の室内練習場だ。施設内は人工芝が一面に張られ、打撃マシンもあり、塾生が一斉にティー打撃を行えるスペースもある。もちろん、ノックも受けられ、マウンドもある。

 指導しているのは矢作さん。野球界への恩返しの思いを込め、家族が営む株式会社公栄の敷地を借りて野球塾を始め、今年で12年目になる。現役時代よりさらに大きく成長し、126キロの超巨漢に。見た目には威圧感はあるが、小学生に指導する姿は優しかった。練習時間は夕方5時から2時間。1組8人で少人数だが、短い時間で効率よく指導に当たっているという。

 「今回のコロナ禍で約2カ月自粛しました。熱心な子はいろいろと相談に来たりしていましたが、この時期は指導そのものが難しかったです」

 もともと、この練習場は管理費だけを確保するつもりだった。ボランティアにはできなかったが、塾費は極安だ。指導にあたってモットーは3つある。

(1)まずは小学下級生には「“野球が好き”になれるような指導を」

(2)中学生には「勝つ喜びを知り、負けたくないから自然と練習をしたくなるように」

(3)最後は将来の進路を考えて「短い時間で濃度の濃い練習をし、努力の成果を出していくように」

 この塾からプロ野球選手第1号としてソフトバンクの上林誠知を輩出。その他にも甲子園出場選手、大学球界で活躍している選手を送り出した。教え子から届いたペナントが数多く自宅に飾ってあり、これが矢作さんの誇りであり、自慢だ。

 この塾を開校して一番印象に残っているのは3・11東日本大震災の時だという。

 「あの時は埼玉も停電だったんですよ。練習中で子供たちは帰らずにここを離れませんでした。ロウソクをつけ、小さな灯りの中でティー打撃をしたんですが、あの時は回りが真っ暗だから集中力がつきました。野球談義も充実したのを覚えています。あのときだって楽しく練習できたんだから今回もコロナに負けるな!と言って励ましています」

 立教大では左打ちのスラッガーとして1年先輩の長嶋一茂と中軸を打ち、通算17本塁打。「私がホームラン打つと一茂先輩が自分の事のように喜んでくれた」そうで、この塾を開設する際に相談すると大賛成し、それと同時に野球塾のパンフレットの推薦文まで書いてくれた。

 「一茂先輩との出逢いはいまの仕事に役立っています。あの天心爛漫な一茂先輩はいつも楽しく練習していました。面倒見がよくて、興味があることにはとことんのめり込んでいく。先輩でしたが私の同級生より仲が良かったんです」

 一茂さんへの賛辞はまだまた続く。

 「いまテレビで活躍していますが、あれが一茂さんの素顔です。いまや、お父さんの名前がなくても立派に一人立ちしています。いまの彼がようやく彼らしいです」

 実は矢作さん自身の人生も山あり、谷ありだった。プロ生活はケガに悩まされ、わずか3年。その後、お好み焼き店「ピンチヒッター」を開いたが、92年に閉店。41歳の時に野球教育の場を作る発想がわき、破産も覚悟で“野球塾”を開いた。

 14年に学生野球資格を回復し、立教大の後輩の岡野泰康さんが監督をする山村学園のヘッドコーチに就任した。岡野氏とは気心が合い、埼玉4強豪高校(春日部共栄、花咲徳栄、浦和学院、聖望学園)と対等に戦えるレベルまでにのし上げた。

 その一方で、多芸多才ぶりを発揮し、スポーツライター、オートレースの予想コラムニストとしても活躍。走路の傾向と展開を鋭く読み、好評を博している。

 「自宅からレース場が近かったですからね。こっちは副業の副業です。もちろん真剣ですよ。でも、やっぱり僕は人を教えるのが一番合っているし、好きみたいです」

 まん丸い顔が一段と丸くなった。

(まいどなニュース特約・吉見 健明)

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