豊田真由子が問う75年目の夏 「悲劇を繰り返さない」ためにわたしたちができること
先の大戦で亡くなられた方は、軍人・軍属約230万人、外地の一般邦人約30万人、国内の戦災死没者約50万人、合計で約310万人。
そのお一人おひとりに、紡いでいくはずの未来と、愛する家族がありました。
戦争を経験していないわたくしは、数多の悲劇について、語る資格を持ちません。
されど、なんとか知り、考え、後世に伝えていかなければならない、と思い続けてきました。
厚生労働省在職時、援護局で戦没者・戦傷病者と遺族の援護に、健康局で原爆被爆者の援護に携わっておりました。
遺骨収集事業で、米軍人が戦争当時、米国に持ち帰ってしまった日本人のご遺骨を、白木の箱に入れ、胸に抱いてご一緒に祖国にお帰りいただきました。今は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお眠りいただいています。一柱でも多く、祖国にお帰りいただきたいと、今も各地で、地道に遺骨収集が続けられています。
家族を想いながら異国に散った戦没者の方々の手紙や手記を読み、すさまじい戦禍や被爆の状況と戦没者・戦傷病者・被爆者の方々の壮絶な苦しみを、様々な記録や関係者のお話等から学び、そして、深い悲しみと戦後の苦難を乗り越えてこられた多くのご遺族のお話をうかがいました。父の顔を知らないのですと話されたご遺族は、地域のために尽くされるとても優しい方で、お母上と越えてこられた長き道のりを思いました。
なんとか生きて帰還された方々も、長年、戦地での苦しい記憶に苛まれながら、ご家族に一切語ることなく過ごされた方が多かったようです。
そうした皆様方が、高度経済成長期を支え、戦後日本の発展の礎が築かれました。
あの頃、わたくしは毎日、たくさんのことを教わり、いろいろなことを思い、考えながら、厚労省で仕事に臨んでいました。そして、窓の外に広がる東京の景色を見て、空襲の恐怖に怯えることなく日々を当たり前に過ごせることの有難さを思うとともに、ここが焼け野原になったことを知らずに過ごすことのこわさと、そうした国の未来を思いました。
今我々が生きる『平和で豊かな日本』が、どれだけの犠牲や、悲しみ苦しみの上に成り立っている、どれほど有難いものであるか。改めて、私たちは、知り、考え、そして、次世代に語り継いでいかなければなるまいと思うのです。そのことが「決して悲劇を繰り返さない」という、確固とした心の砦になっていくとも思います。
人類の歴史や、いまだ世界各地で続く紛争やテロを見ても、我が国が平和を守り続けていられることは、極めて稀有な尊いことだと分かります。
「国を守る方法」については、様々な議論があります。されど、“平和を望む”思いは、どなたも、どこの国・地域も、本来同じなのではないでしょうか。(それなのに、ではなぜ世界で戦禍が絶えないのか、という問題については、また別の機会に。)
今でこそ、災害派遣や国際貢献等、自衛官の方々への信頼は厚いですが、過去には「自衛官の子どもというだけで、学校でいじめられた」「近所でも肩身の狭い思いをした」という時代がありました。前職時代、朝霞駐屯地をはじめとする自衛官の方々のお話をうかがう機会が多くありました。どんなに困難な状況であっても、国と国民を守るために、粛々と「危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努めん」とするお姿に、本当に頭が下がる思いでした。
『戦争反対』のプラカードでは、飛んでくるミサイルから国民を守ることはできません。
今年は、お盆の帰省を控えられた方も多いと思います。ご自宅からご先祖様を思われるとともに、ほんの70数年前、日本で、世界で、何が起こっていたのか、関連する番組や資料にふれる機会を広げていただければ、それは、祖国の平和と安寧の実現を願いつつ、無念の死を遂げられた数多の方々の思いを、受け継いでいくことに、きっとなると思います。
◆豊田 真由子 1974年生まれ、千葉県船橋市出身。東京大学法学部を卒業後、厚生労働省に入省。ハーバード大学大学院へ国費留学、理学修士号(公衆衛生学)を取得。 医療、介護、福祉、保育、戦没者援護等、幅広い政策立案を担当し、金融庁にも出向。2009年、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部一等書記官として、新型インフルエンザパンデミックにWHOとともに対処した。衆議院議員2期、文部科学大臣政務官、オリンピック・パラリンピック大臣政務官などを務めた。