元ビューティ・ペアのマキ上田さんは、浅草で釜飯屋の女将に…相方・J佐藤さんとの別れ、そしてコロナ禍
女子プロレス界で空前のブームを巻き起こした「ビューティ・ペア」のマキ上田さんは今、東京・浅草で夫が営む釜飯屋「田毎(たごと)」を女将として切り盛りしている。
全日本女子プロレス(全女)でジャッキー佐藤さんとペアを組んだのはデビュー翌年の1976年2月。17歳になる前だった。デビュー曲「かけめぐる青春」は約80万枚の大ヒット。リングで歌い、熱狂する少女ファンが投げ込む紙テープと歓声に包まれた。
「歌うことは仕事の一環。2人とも歌で売れたい、テレビに出たいというキャラではなかった。それがヒットして、会場はおじさんから中高生の女の子に変わった」。年間250試合とメディア露出。苦境にあった業界の救世主として多忙を極めた。人気絶頂の77年に東映映画「ビューティ・ペア 真っ赤な青春」に本人役で主演したが、「私は一度も観たことがないんです」と明かす。
相方と考え方の違いを感じるようにもなっていた。「見た目は『ボーイッシュなジャッキー』なんですが、性格は私とまるっきり逆なんですよ。仕事とプライベートの分け方など…。解散は私から言い出しました」。79年2月、敗者引退の一騎打ちとなった日本武道館決戦で引退。当時19歳、活動期間は3年だった。「濃いんだけど、あまりに早すぎて、その重さが分かっていなかった。若いから突っ走れたというのもあります」
引退後は芸能活動も。テレビ朝日系特撮ドラマ「バトルフィーバーJ」に「悪の女王様みたいな」サロメ役でレギュラー出演。テレビ東京系「スーパーガール」などにもゲストで登場。「歌は遠慮したかったのですが、歌手が多くいる事務所に入っていて、どうしてもということで『インベーダーWALK』という曲も出しました。インベーダーゲームがはやっていたから。今でも店にレコードを持って来られるマニアなお客さんがいます」
一方、鳥取に「休憩場所」としてスナックを開店。「妹たちに任せながら。どっぷり鳥取に戻ったのは昭和の終わり頃です」。そして、ジャッキーさんが99年8月に胃がんのため41歳で亡くなる。病のことは知らされなかったが、その前年、10周年を迎えた鳥取の店で2人は再会していた。
「連絡したら来てくれました。自分の体について何か察知していて、最後に会いに来たというのもあったのかもしれない…と後々、考えました。後輩に聞くと、私以外にも久しぶりに会っていた人がいて、あいさつ回りじゃないですけど…。『やせたな』と思ったんですが、スポーツトレーナーの仕事で体が締まっていると思っていた。店ではカラオケでビューティ・ペアの曲を何曲も一緒に歌い、温泉やお寿司を食べに行ったりして、満足して帰ってくれた」。それが今生の別れとなった。
盟友の死後、新たな出会いもあった。「東京は友達が多く、鳥取から飛行機で1時間くらいなのでよく来ていた。浅草で友達がやっていた店で夫と知り合いました」。48歳の時に11歳上の「田毎」の二代目主人と結婚した。
店内では言葉少なだが、夫婦には「あ・うん」の呼吸がある。ご主人が調理した「鳥わさ」の上に、マキさんがポンっと「刻みノリ」を乗せるタイミングも絶妙。厨房で洗い物の合間、左手を腰に当て店内を見つめる姿は、コーナーポストの後ろからリングの相方を見守る姿と重なった。
五目釜めしを注文した。具はエビ、タケノコ、シイタケ、鳥そぼろ、蟹のほぐし身の5種。蒸らしながら全体をかき混ぜて食し、おこげができて2度楽しめる。「浅草には縁を感じています」。伝説となった浅草国際劇場でのビューティ・ペア公演を心に刻む。
全女ОGではジャガー横田らと現在も交流が続く。「年もそれほど変わらないジャガーやダンプ(松本)が体に鞭打ちながら、よくやっていると思います。どんな世界でも最終的には精神力。私も入門時は『こいつより強くなってやる』という思いがあった」
コロナ禍で飲食店は厳しい時代になった。「コロナみたいなものが来るとは私も思わなかったし、浅草で出歩く人も減った。うちは固定客と、あとはテイクアウトの方で、なんとかしのいでいる部分もあります。できることを淡々とやっています」。夫婦というペアで今日も厨房に立つ。
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マキ上田(まき・うえだ)1959年3月8日生まれ、鳥取市出身。バレーボールに打ち込んでいたが、父と全女との縁から地元の高校を中退して上京。75年3月デビュー、WWWA世界シングル王座、同タッグ王座など獲得。79年2月に引退。身長168センチ。
「田毎」(台東区浅草3-27-3)は浅草寺裏にあり、地下鉄浅草駅から徒歩約10分。午後5時開店、同10時閉店(LО同9時)。休業は木曜と第1、第3水曜。電話03・3874・3253
(まいどなニュース/デイリースポーツ・北村 泰介)