誰も死なせない!…「やさしい鬼退治」に列島が共感した理由 大災害やコロナ禍…失い続けた果てに現れた「鬼滅の刃」
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の公開から3カ月が過ぎた。数々の記録を塗り替えた同作品について「なぜここまで大ヒットしたのか」という問いに対し、さまざまな観点からの評論がなされてきた。クオリティの高い作画・演出、魅力的なキャラクター、声優の熱演、過去のヒット作との類似点、コロナ禍の社会背景など、理由として考えられるものはいくつもある。それくらい、アニメとしてクオリティが高いのは確かだ。
一方で、2020年12月に発売された『月刊ニュータイプ』2021年1月号(KADOKAWA)に掲載されたアニメ監督たちによる座談会記事(「続・壮年の志」)では、監督たちが『鬼滅の刃』を評価しつつも、「あそこまでの大ヒットになった」理由を「わからない」「あんまり考えすぎないほうがいいのかな」とも語っている。大衆芸術であるアニメ作品は「売れてナンボ」であり、売上によって世間から評価されるが、表現の当事者にとっては必ずしもその視点のみで作品を評価するわけではない。その立場から見ると、『鬼滅の刃』に関しては、作品の良い点は認めつつも何がそこまで「お客さん」に受け入れられたのかについては戸惑いをもっている制作者も多いのではないかと思われる。先の記事はその作り手側の見方がよく表れている一例だろう。
しかし一方で、間違いなく『鬼滅の刃』は多くの観客に受け入れられた作品であることは間違いない。なぜ人びとにとって、この作品は受け入れやすかったのだろうか。
■『鬼滅の刃』が多くの人に受け入れられたのはなぜか
まず、すでに複数の論者が指摘しているように、『鬼滅の刃』が受け入れられやすかった点として挙げられるのが「物語の骨子がわかりやすい」という点である。『鬼滅の刃』は主人公の少年・竈門炭治郎を軸としつつ、さまざまな登場人物の物語を描いているが、主となる筋立てそのものは、「鬼退治をする少年(たち)の物語」と非常に明快に表現することができる。この理解しやすいストーリーラインは、多様な世代がこの作品を受け入れやすい一因となっている。また、「弱者」である人側の組織である鬼殺隊と圧倒的強者である鬼側との対立構造を物語の最後まで崩さず描き切ったことも、作品をラストまで読みやすい点といえる。創作作品において組織を描くとき、内部の対立を描く作品も数多くあるが、『鬼滅の刃』はその部分をほぼ排除し、人と鬼との対立に絞った物語を展開している。このことによって、人と鬼との対比によって描かれるメッセージが作品の受け手(読者、視聴者)に伝わりやすくなっているのだ。
このようなシンプルさを土台とした物語構造を持っているヒット作品は過去にも数多くみられる。たとえば、2003年~2006年に『週刊少年ジャンプ』に連載された『デスノート』(集英社)はその代表的な事例である。『デスノート』というと、人間模様が複雑なサスペンスというとらえ方もできるが、作品で描かれている物語の基本となる対立構造は、「デスノートを使う者(持つもの)」vs「それを追う者(持たざる者)」で最後まで統一されている。物語の進行に応じて、立場が入れ替わることがあるが、この基本的な構造は維持されることで読者(視聴者)にとって、物語の筋が追いやすい作品となっている。『鬼滅の刃』もまた、同様のわかりやすい構造をもつことで多くの人が受け入れられる土台となっている。
とはいえ、「わかりやすさ」だけで作品はヒットするわけではない。作品を構成するさまざまな要素が優れているからこそ、多くの人を魅了するのだ。この作品を構成する要素や表現については、本稿の最初に述べたようにすでに多くの記事で取り上げられているため、本稿ではそれらの説明は割愛したいが、一方で、作品のクオリティが高いからと言って「ここまでなぜヒットしたのか」という問いにじゅうぶんに答えられないのは、すでに紹介したアニメ監督たちの座談会での彼らの発言からもうかがえることである。とすれば、作品に込められているメッセージが現在を生きる私たちの感性と共振するものであったことが、ここまでのヒットを生み出す大きな要因となったと考えることができよう。本稿では、特にこの作品内で描かれるメッセージのうち、とりわけ弱者に寄り添い、彼らを守り、次世代につなげることの可能性を語っている点に着目する。そして、このような作品のメッセージ=「鬼滅の思想」こそが、多くの人びとの共感を得ている背景を分析したい。
■『鬼滅の刃』と先行作品の違い
『鬼滅の刃』において人と鬼との対比を通じて作品で描き出されるのは、徹底して「弱者」に寄り添った目線である。主人公・炭治郎は留守中に鬼の首領である鬼舞辻無惨に家族のほとんどを殺され、唯一生き残った妹・禰豆子を鬼にされる。この妹を人に戻すことが炭治郎の目的となり、物語が展開されていくが、この炭治郎をはじめ、圧倒的強者である鬼によって蹂躙される人びとが作品内でたびたび描かれる。そして、その弱者である人の組織として存在するのが鬼殺隊である。鬼殺隊隊員は「全集中の呼吸」により鬼と渡り合う超人的な力を手に入れている。しかし、特殊な武器(日輪刀)によって致命傷を与えない限りいくらでも傷を癒してしまう鬼に対し、隊員たちは重大な怪我を負ってしまうと決してその傷が治るわけではない様子が作中でたびたび描かれる。鬼と比較すれば、超人的な強さを持つ鬼殺隊隊員もまた「弱者」なのである。このような人と鬼との格差が存在する中で、弱者である人はどう立ち向かうのか。この問いへの模索こそが、『鬼滅の刃』の特徴を形作っている。
実のところ、このような人外の強者的存在と、その脅威にさらされる状況(サバイバル状況)で弱者的存在の人びとがどうふるまうかが描かれた作品はこれまでも数多く生み出されている。2000年代以降の人気ジャンルとまでいってしまってよいかもしれない。たとえば、『進撃の巨人』(講談社、2009~)などはその代表例といえる。それらの先行作品との比較の中で「『鬼滅の刃』のヒット」を考える際、(ネタバレをしない範囲の)表現でそれらと『鬼滅の刃』との違いをいうのであれば、「弱者を切り捨てることを容認するか、しないか」であるといえる。たとえば、『進撃の巨人』では「世界は残酷」であることが作中で何度も語られ、苦境を脱するために、ときに仲間の誰かを切り捨てる決断をすることを、登場人物たちが容認する場面が何度も描かれる。そのことは、作品に緊張感を生み、先が気になるという連載作品としての魅力をつくりだしている。『鬼滅の刃』も同様に鬼との過酷な戦いの中で、登場人物の多くが傷つき斃れていく、緊張感をもった展開がなされる。
しかし、先行作品と違い、サバイバル状況で誰かを切り捨てるという決断を、『鬼滅の刃』の、少なくとも主要登場人物は容認しない。その代表例といえるのが『無限列車編』作中で発せられる炎柱・煉獄杏寿郎のセリフ「俺は俺の責務を全うする!!ここにいる者は誰も死なせない!!」である。作品内において弱者の組織である鬼殺隊内の「強者」である立場の隊員(「柱」)たちは、自らの「責務」を「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務」ととらえ、過酷な状況の中でも自らの命を賭して、後輩の隊員たちや人びとを守り導こうとする。強者として傍若無人にふるまう鬼と対照的に、この「強者の責務」を貫きぬこうとする隊員たちの姿が人びとの胸を打つ。
ここで注意したいのは、この「強者の責務」は単に弱者への哀れみから来ているものだけでない、ということである。そのことは、杏寿郎が後輩である炭治郎たちに語りかけた「君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる。」という言葉によく表れている。
鬼殺隊および『鬼滅の刃』を貫き通している思想の一つに、この杏寿郎のセリフに代表される、未来を担う「弱者」たちへの信頼がある。自らが目的を達成できなくとも、誰かが自分たちの想いをつないでいき、「鬼滅」を完遂してくれる。その確信が、鬼殺隊を支える。『鬼滅の刃』コミックス最終巻(23巻)発売日である2020年12月4日の全国紙五紙に掲載された広告の「夜は明ける。想いは不滅。」というキャッチフレーズには、その思想がよく示されている。だからこそ、鬼殺隊の「強者」たちは自らの「責務」として弱者を守るのである。
一方で、「弱者」への視点は、人側だけでなく、強者側の鬼にも適用される。彼らもまた、鬼舞辻無惨によって鬼に変えられるまでは、社会的弱者として生きざるを得なかった人びとであることが作中、鬼の過去の記憶として描かれる。なぜ彼らは鬼にならざるを得なかったのか。その背景が描かれることで、憎むべき存在の鬼もまた同情すべき存在として読者(視聴者)の前に現れる。
この鬼たちに対し、鬼殺隊の隊員たちは厳しい態度で臨むが、しかし、主人公・炭治郎は慈しみの心で応対する。
「鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。足をどけてください。」
「醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ。」
ある鬼が首を落とされ消えゆくときに炭治郎は、鬼の残がいを踏みつけにする鬼殺隊の隊員のその行為を止めようと、声をふりしぼる。このような、炭治郎の「やさしさ」は作中で一貫されており、先行作品にあまり見られない『鬼滅の刃』ならではの特徴となっている。『鬼滅の刃』のマンガ単行本のプロモーションにおいて、集英社は「日本一慈(やさ)しい鬼退治」というキャッチフレーズを用いているが、このフレーズは、他の作品にはない、『鬼滅の刃』の特徴をうまく表現した言葉である。
■「鬼滅の思想」がなぜ受け入れられたのか
ここまで、先行作品も踏まえつつ『鬼滅の刃』の特徴といえる点を取り上げてきた。人と鬼との過酷な戦いを描きながらも、コミックスを取り扱う出版社側が「慈(やさ)しい」と形容するような作品の雰囲気が本作にはあるが、それは「強者の責務」「未来への信頼」「弱者への慈しみ」といった視点がこの作品にあふれているからだろう。『無限列車編』やコミックス最終巻発売時のSNSの反応などを見ても、観客や読者は、これら作品の端々で描かれるメッセージをすくい取り、深く共感しているように思われる。
では、なぜ『鬼滅の刃』にあふれる思想--「鬼滅の思想」に私たちはひかれるのだろうか。このことは、大災害や新型コロナウイルスの感染拡大などによって、私たちが多くのものを奪われる経験をしてきたことと無縁ではないだろう。
バブル崩壊以降の長い不況下で格差拡大の容認や自己責任論が高まってくる中、社会で受け入れられた物語は、過酷な生存競争の中で自らの才覚や決断によってその困難を乗り来ようとする主人公たちだった。そして、それらの作品では、先に挙げた『進撃の巨人』がそうであるように、ときに他者を切り捨てる「現実的判断」を容認する描写が作品のリアリティを高める要素として機能してきた。
しかし一方で、私たちは、近年あまりに多くのものを失う経験をしてきた。それをもたらしたのは、自然という、人の及ばない圧倒的強者であった。近年、私たちの国が直面してきた、スーパー台風や巨大地震、豪雨災害。そして、2020年に世界に蔓延し、現在を生きる私たちの誰もが影響を受けている新型コロナウイルス--人知を尽くしても及ばない存在に向かい合ったとき、結局のところ、弱者に過ぎない私たちはどう対応すべきなのか。どういう態度で生きるべきなのか。人の抗えない「自然」という強者と対峙せざるを得ない体験をしたことで、これまでになく私たちはそれらの問題意識を持つようになっている。そして、この状況下では誰かを切り捨てても、問題が何も解決しないことを私たちは理解するようになりつつある。
『鬼滅の刃』は、現在の私たちが求めている答えの一端を物語の中で示したのではないか、そして、だからこそ一大ムーブメントをひきおこしたのではないかと筆者は考えている。『鬼滅の刃』作中で描かれているその答えは、これまでも触れてきたように、
(1)強者が弱者を守る「責務」を果たす
(2)「未来」の可能性に目をやり、そのために、今できることをする
(3)弱者を切り捨てる(考慮しない)のでなく、「慈しみ」の視線で彼らに寄り添う
--という、言葉にすれば、きわめてありきたりな「正論」である。「楽観論」「理想論」ともいえるかもしれない。実際、その想いだけで誰かを救いきれないことも『鬼滅の刃』は描いている。それでも、想いをつなぎ、弱者として人が連帯していくことで「鬼滅」をなしとげる様を『鬼滅の刃』は描く。過酷な状況下での「やさしい物語」。新型コロナウイルスという自然から生まれた「強者」に晒されている私たちにとって、『鬼滅の刃』は希望の物語である。
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■谷村要(たにむら・かなめ) 大手前大学メディア・芸術学部准教授。専門は情報社会学・サブカルチャー研究。特にネット上の表現活動、アニメの社会現象について詳しい。