死ぬまで隔離された精神障害者たち 人間の尊厳を奪う国策「私宅監置」とは何だったのか
かつてこの国には、精神障害者を小屋などに隔離する「私宅監置」という制度があった。「一部の弱者に犠牲を強いて、地域社会の安寧を保つ」という考え方が露骨に反映された精神病者監護法(1900年制定)に基づく国策だ。日本本土では1950年に禁止になったが、沖縄では1972年まで続いたというこの“負の歴史”を照射するドキュメンタリー映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」が3月20日の新宿K'sシネマを皮切りに、全国で順次、公開される。この映画が今の社会に問いかけるものとは何か。沖縄を拠点にフリーのTVディレクターとして活動している原義和監督に話を聞いた。
◇人間の尊厳を奪う国家制度「私宅監置」
映画制作のきっかけは、1960年代に沖縄で撮影された写真との出会いだった。東京から医療支援に訪れた精神科医の岡庭武さんが、私宅監置で隔離された精神障害者の姿を記録したもので、原監督はそのあまりにも非人道的な制度の実態を目の当たりにして大きな衝撃を受けたという。「夜明け前のうた」は、私宅監置が行われた当時を記憶する関係者を原監督が訪ね歩いて取材を重ね、犠牲者の声なき声に耳を傾けた記録である。
「沖縄の米軍基地問題などが象徴的ですが、この社会ではあまりにも理不尽なことが平然と行われています。でもそれらは、私たちがきちんと目を凝らして考えないと、なかなか見えてきません。精神障害者が人間の尊厳を奪われた私宅監置も、どう考えても異常な制度ですが、いつの間にか忘れ去られようとしている。こうした歴史にあらためて目を向けると、『共に生きる社会』『誰も取り残さない社会』というお題目がいかに欺瞞に満ちたものであるかと気づかされるはずです」
◇決して「過去の話」ではない
私宅監置の制度自体は沖縄でも1972年を最後に撤廃されるが、原監督は「決して終わった問題ではない」と指摘する。何故なら、国賠訴訟やその後の補償、政府などからの公式な謝罪が行われたハンセン病患者の強制隔離制度(らい予防法)とは異なり、「当時から今に至るまで全くけじめがついていない」と考えるからだ。
「何年も、何十年も、薄暗い小屋に閉じ込められて、死ぬことでしかそこから出ることができない。そんな人生の全てを奪われた人の絶望なんて、私たちには絶対にわかりようがないじゃないですか。だからこそ、せめて犠牲者の尊厳を回復するためにも、国の責任者が『あの制度は間違っていた』と謝罪するべきだと思います」
「『今の論理で過去の出来事を断罪することはできない』と言う人がいますし、確かにそういう面があることは否定できません。でもその理屈では、戦争だろうと何だろうと『あれは仕方なかった』で終わり。だから僕はそういう考え方にすごく違和感を覚えます。間違ったことは間違ったこととして、社会的にきちっと反省、そして検証しない限り犠牲者は浮かばれません。100年前の話だろうが、例え本人が亡くなっていようが、そんなことは関係ないのです」
◇形を変えて続く「社会的排除」を乗り越えるために
原監督は「どうして彼らは隔離されなければならなかったのか」といった紋切り型の問いや、「隔離した家族や地域にも事情がある」という中立的な視点には意義を認めない。「精神障害者を隔離することに、そもそも正当な理由などない」という持論があるからだ。
「隔離は隔離する側の“都合”で行われました。そして、社会的排除は今も精神病院での長期入院などのように形を変えて繰り返されています。過去に学んでいないから、そういうことが起きてしまう。また、意味合いはやや異なりますが、近年も精神疾患の子を親が監禁して死なせてしまう事件が相次いだことはご承知の通りです」
「ともすれば『家族が悪い』と言われますし、最近の事件に関してはもちろん親が何らかの罪を負うべきではありますが、私はやはり、これは社会の問題だと思います。過去の過ちから問われているのは、社会としてのけじめと覚悟です。私宅監置の犠牲者が味わった途轍もない苦しみに蓋をするのではなく、しっかりと向き合い、学んでいくことからこそ、次の一歩が見えてくるのではないでしょうか」
3月20日(土)から新宿K'sシネマ、4月3日(土)から沖縄の桜坂劇場、4月9日(金)から京都シネマ、4月10日(土)から大阪のシネ・ヌーヴォ、4月17日(土)から神戸のアートビレッジセンターで公開。4月10日のシネ・ヌーヴォ、4月11日の京都シネマでの上映後には、ゲストを交えた原監督のトークショーも予定している。
(まいどなニュース・黒川 裕生)