葬儀やお墓は必要なのか? グリーフケアの観点から考えてみた
令和3年2月、身内に不幸があった。これを機にグリーフケア(「悲嘆」の癒し)について学ぼうと思い、数冊の書籍を買い求めたのだが、そのなかの一冊に「死別の悲しみに向き合う グリーフケアとは何か」(著・坂口幸弘、講談社現代新書)がある。
「グリーフケアとは何か」をテーマに書かれているのだが、たいへん分かり易く腑に落ちるところがたくさんあった。そのなかでも興味深く感じたのは「西田幾多郎の言葉」だ。これは哲学者西田幾多郎(1870年~1945年)が、友人の藤岡作太郎が「国文学史講和」を出版する際、「序文」として執筆した文章を紹介したものだが、実はふたりとも幼い実子を亡くすという経験を共有していたそうだ。それで、その「序文」の全文を読んでみたくなり、探して読んだ。以下一部を抜粋して引用させていただく。
「時は凡ての傷を癒すというのは自然の恵であって、一方からみれば大切なことかも知らぬが、一方よりみれば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や苦しみはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語りがあった、今まことにこの語りが思い合わされるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲しみは苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。」
あの西田でさえこの苦しみは避けられず、いや、あえて避けるべきではないという。そう考えると気持ちが少し楽になる。
そして、ワシントン・アービング(1783年~1859年)の「スケッチブック」が気にかかる。「リップ・ヴァン・ウィンクル」は有名だが、読んだことがなかった。それですぐに購入した。「スケッチブック」には、短編小説やエッセイが収められている。西田がそのなかのどの作品のことをいっているのかわからないので最初から読んでいった。
「田舎の葬式」という作品であった。数篇の詩を引用してあるエッセイだ。イギリスの田園地帯の葬儀や墓地について描かれている。「田舎の葬式」のなかの該当箇所を抜粋すると「亡き人に対する悲しみとは、私たちが故人と離れたくないと思う唯一の悲しみを意味している。われわれは他のあらゆる傷と痛みを癒そうとして、その他の苦痛の種を忘却の彼方に追いやろうとするものだが、心の悲しみと痛みだけはそのままに留めておくことが義務であると考えて、静かに胸のなかに収め、静かに思いをめぐらすのである」「死者をいとおしむことは、現世に生きる人の心に宿った一つの最も崇高な精神の属性である」このあたりの記述について触れていると思われる。
近世までの田舎で暮らすひとたちは住まいと墓地が近くに存在し、そのことが葬儀の風習やそこで暮らすひとたちの死者に対する精神に密接に関係していると考えられるが、このことはイギリスに限らず日本においても言えることである。近代化によってひとと土地の結びつきが弱くなり、その関係性に変容をきたした。
世帯構成も変化して「墓仕舞い」という問題も顕在化してきた。そして最近では、葬儀無用論が注目を浴びており、葬儀の在り方が問われているようだ。しかしながら、西田の「序文」やアービングの「田舎の葬式」にもあるように、グリーフケアの観点からは、葬儀やお墓は絶対的に有用なものであり、その価値は100年経っても200年経っても変わらないものと筆者は考える。
◆北御門 孝 税理士。平成7年阪神大震災の年に税理士試験に合格し、平成8年2月税理士登録、平成10年11月独立開業。経営革新等認定支援機関として中小企業の経営支援。遺言・相続・家族信託をテーマにセミナー講師を務める。