フィンガー5の晃が還暦に 激動の半生「変声期に女性ホルモン拒否」「『学園天国』歌って家電を営業」
1970年代前半に大ヒット曲を連発した沖縄出身の兄妹5人組クループ「フィンガー5」のメインボーカル・晃が5月に還暦を迎えた。あのトンボメガネの少年歌手が60歳の節目を迎えたことを機に、当サイトに激動の半生と近況を語った。
本土復帰前の沖縄で生まれ育った。ベトナム戦争の時代、米兵が訪れるクラブを営む父のもと、幼い頃からソウルやロックに親しみ、上京後の70年に3人の兄と1歳下の妹・妙子さんと結成した「ベイビー・ブラザーズ」でデビュー。「フィンガー5」に改名後、73年8月発売のデビューシングル「個人授業」から「恋のダイヤル6700」「学園天国」と3曲続けてミリオンセールスを記録した。末弟の晃は米国の「ジャクソン5」でいうところのマイケル・ジャクソン的な立ち位置にいて、変声期前のハイトーンボイスで小中学生ファンの心をつかんだ。
12歳の晃は日本一忙しい小学生になった。「布団で寝られるのは3時間くらい。学校は1、2限目で早退。過労で倒れて何回も救急車で運ばれた。体重が30キロ台で、あばらが見えてるし、お医者さんに『このままじゃ死ぬよ』と言われて。ご飯を食べる暇も気力もない。テレビやラジオに出て、夜中の12時からレコーディング。夜8時以降、働いちゃいけないんだけどね」
74年の紅白歌合戦では確実視された初出場が消えた。「国会で児童福祉法違反だと問題になって。当時は休めるから内心喜んだけど、今思えば歌手として1回は紅白に出たかったという部分もある」。一方で“役得”も。「女性アイドルの楽屋に平気で入れた。体が小さくて小6でも3年生くらいにしか見えなくてね。でも、頭の中は20歳くらいだから(笑)。超マセガキでね。怒られもしたけど、山口百恵さん、桜田淳子さんにはよくしてもらいました」
子どもながらVIP扱いされる境遇に戸惑いつつ、受け入れもした。
「中1の誕生日プレゼントがミンクのコートやダイヤの指輪、香水ですよ。僕は仮面ライダーカードが欲しいと言っても、周りの大人はどこで買えるか分からない。ダイヤの指輪はプールでなくした。一方で大人に合わせようとする自分もいて一生懸命働いた。当時のマネジャーと10数年後に会った時、真っ黒な手帳を見せられて『お前たちが命削りながら働いた血と汗で、お金もらってごめんね。晃が倒れる度に申し訳ないと思ってた』と涙ながらに語られました」
中学2年で変声期に。「一番つらかったね。どんどん声がかすれていく。変声期を遅らせるために女性ホルモンを打たれそうになったけど、僕は絶対に嫌だって断った」。心機一転、75年にグループで渡米。「アメリカに半年いて帰ってきたら、フィンガー5は全くいない存在になっていた。新しい人たちがどんどん出てきて。これが現実だなと受け止めた」。やりたかった「大人の音楽」も世間には伝わらない。「ファンクやモータウン系のソウルをやったけど、時代が早過ぎちゃった」
19歳で芸能界から離れた。「長男の一夫が不動産業、次男の光男が美容師、三男の正男がスナック経営と人生を決めたけど、僕と妹は歌しか知らないから困ってね。人生ゼロからのスタートで就職したのが電気店。飛び込みの営業マンです。アポなしで知らない家の玄関を叩いても開けてくれない。見かねた沖縄出身の店長に助言されて、当時発売された8トラックのカラオケを持参して、玄関の前で『ヘーイ、ヘイヘイ、へーイヘイ』って『学園天国』を歌うんですよ。そしたら『こんなことやってるのか』と泣かれて、テレビとか買ってくれて、知り合いも紹介してくれて売り上げトップですよ。最後の最後、これができなかったら死ぬだけと思っていたから」
輸入住宅のセールスマンを最後に、2002年から音楽活動を本格的に再開。「ネクタイ締めて仕事しながらCМ曲を歌うという二足のわらじを履いていたけど、芸能一本にした。焼鳥店、そば店、キャバクラ、ホストクラブ…。歌える場所があればどこでも歌った」。ソロライブも続け、10年にはフォーリーブスの江木俊夫、あいざき進也、狩人の高道と4人組ユニット「テイスト4(T4)」を結成した。
コロナ禍で1年半ほど有観客ライブから遠ざかるが、現時点で6月26日にT4のライブ、7月31日に都内で「晃バースデーライブ」を開催予定。3人の兄、主婦になった妹の中で唯一、音楽活動を続ける。「60歳になっても体調は変わらない。ボクシングや登山など体を使うのが好きで、音楽が大好きだからね」。少年時代から歌への思いも変わらない。
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◆晃(あきら) 1961年5月9日生まれ、沖縄県出身。玉元兄弟の四男。5年前から本格的に始めた登山や愛猫まちこ(メス7歳)への思いを重ねたブログ「晃 山とネコと音楽と!!」で日々の出来事を発信中。
(まいどなニュース/デイリースポーツ・北村 泰介)