娘の障害発覚、妻の死が転機に「野球への未練は断ち切れた」 星野監督に愛された元プロ野球選手は接骨院を経営

 プロ野球の阪急、中日、阪神などでバイプレーヤーとして活躍し、乱闘の際には”主役級”の働きをした南牟礼豊蔵さん(60)をご存じだろうか。引退後は2005年に兵庫県西宮市で「みなみむれ接骨院」を開業。患者に寄り添った施術を続けて来た。一方で「心のケア」をテーマに講演活動も実施。ここでは亡き妻との闘病生活と障害のあった二女を育て上げた秘話を語ってくれた。もちろん、あの軽妙な語り口で。

 宮崎県の都城工から社会人野球の電電九州を経て1981年に阪急からドラフト3位指名を受けた。当時は福本豊、簑田浩二ら鉄壁の外野陣。守備、代走要員として1軍枠に残るのが精いっぱいだった。

 「病気持ち(腎臓)でしたからプロなんて考えていませんでした。“上田(利治)監督が期待している”とスカウトが言うので、入団したんですが、監督から名前で呼ばれたことは一度もありません。”おい!”とか、背番号でした(笑)」

 やがて、上田監督への不信感は募り「阪急を出たい!」と思うように。そんな中、1988年に阪急がオリックスに買収された。「阪急に嫌気がさしていたので内心、これで少しはましになるとやる気が出たのです」

 ところが、それも束の間。1991年は上田監督に代わって土井正三が監督に、山内一弘がヘッド兼打撃コーチでスタートした。

 「最悪でしたね。ミーティングでは巨人ではこう、セ・リーグではこう、と耳にタコができるほど言われました。われわれ阪急組は“ここはパ・リーグじゃ、読売やあらへん”と言いながらノックを受けていました」

 そんなとき、代打で起用され、スリーバント失敗。土井監督から「俺の目が黒いうちは2度と野球ができなくしてやる!」と激怒された。この状況ではオリックスに居られるはずがない。南牟礼さんは当時中日監督だった憧れの星野仙一に頭を下げた。すると数カ月後に「事情は聞いている。ウチに来い!」と91年5月にトレード移籍が決まった。

 「すごく嬉しかった。セ・リーグに行けば、たくさんのお客様の前で野球ができる。何より、星野さんのためなら命を掛けてもと、相当な覚悟で中日に行きました」

 その中日では主力選手に負けないほどファンから愛された。満員のスタンドから降り注ぐ”トヨゾーコール”はいまでも耳に残っているという。

 「野球人生の中で中日が一番生き甲斐がありました。この監督なら命を張ってもいい。あれだけ殴る蹴る、言葉もバカタレとか、怖い一面はありましたが、裏に回れば実に優しい人です。人を引き付ける人間力。私もそうなりたい、と思った人でした」

 生前、星野さんは私に南牟礼さんについて「あいつは乱闘が起きると、ベンチを飛び出してワシらを身を持って助けに来た。気骨のある男だ。野球生命を終わらせたくなかった」と話したことがあった。

 94年、テスト入団した阪神では主に守備固めと代走要員。存在感は薄れつつあったが、送りバントがレフト前まで転がり、大逆転になったシーンは熱心な阪神ファンなら覚えているのではないか。96年、ダイエー(現ソフトバンク)の入団テストを受けようとしたところ、膝を痛めて現役引退を余儀なくされた。

 「しばらくは未練タラタラ。野球に諦めがつかなかった」

 35歳で引退。そこからがまた激動の人生が待っていた。あるラジオ局の解説者に抜てきされたものの、イチローのメジャー移籍に伴い、スポンサーが離れたことで番組が終了した。そこから家族を養うために、本格的に柔道整復師の道へ。42歳にして国家資格を取るため、3年間専門学校へ通い始めた。学費は500万円。しかし、2年後に予期せぬ出来事に見舞われた。

 二女・智聖(ちさと)さんが誕生したが、障害があると診断されて頭は真っ白。さらには妻・清子さんが乳ガンと分かる。その後8年間に及ぶ闘病の末、この世を去った。

 「蓄えていた貯金はなくなって。それでも、この道で娘2人を養い、育てるしかありませんでした。必死でした。この時にはっきりと野球への未練、コーチになりたい夢は断ち切れました。そして、必死で生きようとする姿を見て、多くのことを学びました」

 現在、23歳になった長女・麻莉子さんは母親がガンに苦しんだ姿を見て看護師の道を選び、21歳の二女・智聖さんは障害者就労支援施設に勤めている。「娘たちが私の頑張りを認めてくれるのがいまの支え」と南牟礼さん。同じ境遇だった星野仙一さんと同様に娘たちの意思を尊重して独身を貫いている。

 そんな南牟礼さんに今後の抱負を聞くと、こんな答えが返って来た。

 「私がこれまでのキャリアを通じて痛感したのは根性論とか、力任せのトレーニングではダメだということ。場当たり的な身体のケアとリハビリでは本来、人が備えている身体機能や治療能力を最大限に発揮する事ができず、その前に不運にも故障してしまうという現実です。

 いまはこれらの経験に基づき、試行錯誤しながら真のトレーニングと心のケアを目指しています。教えるのではなく学ぶです。すべての患者さんや未来あるアスリート、子どもたちに寄り添っていくつもりです」

 講演では家族との闘病体験を語りかけ、最近ではYouTubeでの露出も増えて来たが、野球の指導者への意欲は失っていないように感じられた。

(まいどなニュース特約・吉見 健明)

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