歴史的会合を見た…織田信長と明智光秀の末裔が延暦寺を訪問 比叡山焼き討ちから450年、犠牲者を慰霊
去る9月12日、比叡山延暦寺で歴史的シンポジウムが行われた。さかのぼること450年前のこの日は織田信長によって延暦寺焼き討ち(延暦寺では「元亀の法難」と呼ぶ)が行われた日。なんと、その日に焼き討ちの当事者である織田信長と明智光秀の末裔が延暦寺を訪れ、延暦寺の僧侶と対談したのだ。
織田家の末裔はジュエリー企業にお勤めの織田茂和氏(東京都在住、43歳)、かたや明智家の末裔は一般社団法人明智継承会代表理事であり、歴史学者でもある明智憲三郎氏(東京都在住、74歳)。この2人をパネラーに招いた対談は『比叡山仏教文化シンポジウム「比叡山焼き討ちから450年の時を経て···」~織田信長公・明智光秀公の末裔をお迎えしての特別対談~』と題し、オンラインイベントとして開催された。
まず午前10時から、阿弥陀堂にて元亀の法難殉難者慰霊法要が執り行われ、織田氏、明智氏も列席した。延暦寺では天台宗の開祖であり、比叡山延暦寺を開いた最澄の言葉「怨みを以て怨みに報せば、怨み止まず。徳を以て怨みに報ぜば、怨み即ち盡(つ)く」(怨親平等)による教えに基づき、敵味方に関わらず、亡くなったすべての犠牲者を慰霊する鎮魂塚が建立されており、毎年その前で法要が行われてきた。
今回は場所を阿弥陀堂に移し、水尾寂芳代表役員執行を導師とする総勢7名による「常光三昧」という特別な法要を実施。というのも今年は比叡山焼き討ち450年だけでなく、最澄没後1200年の節目にあたる年でもあり、こうした大きな会が開かれた。
対談会場の延暦寺会館入り口では、滋賀県の観光PRを行っている信長隊安土衆が出迎え、ムードを盛り上げてくれた。私も「信長と光秀が延暦寺に来ている!」と興奮気味に写真を撮らせていただき、派手ないでたちの”信長様”に今の気持ちをお聞きすると「いつもと変わらず粛々と迎えておる。敵味方問わず弔いに参った」と答えてくださった。
広い会場内に入ると、取材ブースにはテレビ局のカメラが7台並び、各新聞社の記者も多数着席しており、対談への注目度の高さが感じられた。13時半からシンポジウムがスタート。滋賀県知事によるビデオメッセージ紹介の後、いよいよパネラーが登壇した。
パネラーには織田氏、明智氏の他に延暦寺から水尾寂芳氏、今出川行戒氏が登壇。さらに、この日のコーディネーターであり、延暦寺と両家の末裔を取り持ったフリーランスライターの高山みな子氏が進行役として駆けつけた。実は彼女は勝海舟の玄孫。祖先が江戸城無血開城を取り持ったように、その末裔も橋渡し役を担っていたことに驚いた。
まず、延暦寺の今出川氏から「今日は延暦寺としても歴史的な1日になる」、水尾氏から「慰霊法要にお2人がご参列、ご焼香いただき、執り行われたこと、そして特別対談とまさに感無量」とあいさつ。続いて高山氏が、みずほ証券株式会社の代表から「勝海舟の祖先であるあなたも歴史を作るんですよ」と今回のコーディネーター役を持ち掛けられた経緯を明かした。
そんな中、最年少の織田氏は、緊張した面持ちで「私の先祖である織田信長は延暦寺様のご法要にとても感謝の念でいっぱいであると思う」と感慨深げ。織田家には現在2系統4家の末裔の方々がおり、彼は織田信長の次男である織田信雄(のぶかつ)の流れをくむそうだ。
特別対談の話を聞いた時は「本音を申しますと当初は信じられない思いがしたが、怨親平等という、ありがたいお言葉のご説明を受け、さらに明智家から憲三郎さんが来られるとうかがい、出演することを決意した」と胸の内を語ってくれた。明智氏と高山氏は織田信長や戦国時代についての学びの師匠だそうで、日頃から親交があったのも決断のきっかけとなったようだ。
さらに織田氏は「信長にとっても戦国の世は大変厳しい状況だったのではないか。延暦寺焼き討ちは大変悲劇的なことだが、私は織田信長自らが天下統一を成し遂げるために戦いのない平穏な時代が到来することを夢見ていたように思う」と話した。
明智氏も「特別な法要に招かれたことは大変ありがたいこと。明智光秀は焼き討ち後、西教寺の再建や坂本地域の復興に尽力した。今日という日は織田信長公の末裔とともに明智光秀の末裔にとっても新しい時代の幕開けにふさわしい1日になる」と感慨深げだった。
憲三郎さんは明智光秀の子どもである於寉丸の末裔。明智の末裔は本能寺の変以降江戸時代を経て明治維新を迎えても苦難の道が続き、領地を変え、ひっそりと隠れ忍んできたという。
彼の曽祖父が明智姓の復姓を願い出て明智を名乗ることが許されたといい、氏がいま、明智光秀の末裔として日本の歴史文化に関わる研究活動をしているのはこのような曽祖父の思いによるものだ、と祖先の働きについても教えてくれた。
水尾氏は比叡山焼き討ちに対して「戦国時代の中、焼き討ちをした側、された側、その攻めた側がまた敵味方となり、本能寺の変があった。その攻めた側も戦によって犠牲に。勝者であった豊臣家は比叡山の焼き討ち後の復興を許可し後押しをし、そして、豊臣家を滅ぼした徳川幕府がこの総本堂(根本中堂)の再建を果たした。このような歴史の上に今の私たちがある」と回顧した。
その上で「一時は敵味方であっても、お互いに関係しあって今日がある。そこに恩や恨み、怨親というものが存在しているわけでは決してない。だからこそ、今日ともにこの場所に身を置いて心を同じくして犠牲者を悼み、鎮魂慰霊のための祈りをささげることができた」と時代背景や立場といったものを鑑みながら言葉を述べた。
対談は終始、緊張感ある雰囲気で進行し、一問に対し、じっくりそれぞれが答えられる形で進み、あっという間に閉会の時間に。織田氏は「本当に感無量という言葉しか思いあたらない。織田信長も私の隣に座って、とても喜んでいるような感じがする。今回のご縁に感謝し、新型コロナウイルスが沈静化した後、延暦寺のお坊様と意見交換をしたい。そして、新たな時代を創造し延暦寺様や坂本地域の方々の何かお役に立ちたい」と今後の思いを口にした。
明智氏も「450年の時を隔てて先祖が関係した大変大きな事件の追悼の場にこうして参加させていただき感無量。光秀もこのような場に私が参加させていただくとは思いもよらないことであり、大変驚いているはず。現在も世界各地に戦国時代は存在しているが、戦のない武力に頼らない国をつくることがどんなに難しいか、でも、それを追及していくことが”怨親平等”の考えにも適い、歴史にも学ぶことの実践にもなるのでは」と話した。
水尾氏は「450年前のまさにこの場所で焼き討ちがあったことを考えると、そこに織田家、明智家の末裔をお迎えしてお話させていただいているのは本当に不思議な感じがする。今後を変える新しい出発点になった。織田様、明智様と、今日の法要と対談を出発点に新たな関係を進めていけることを心から祈っている」と挨拶して対談は閉会。グータッチを交わして記念撮影を行った時に互いに、ようやく笑顔がこぼれ、緊張感漂う時間が終わった。
終了後は、9月1日から来年3月末まで開催される観光プロモーション「めくるめく歴史絵巻滋賀・びわ湖」オンラインPRイベントも行われ、墨絵師御歌頭(おかず)氏によるライブパフォーマンスも披露。最後は信長隊安土衆、水尾氏、今出川氏の他に公益社団法人びわこビジターズビューロー会長川戸良幸氏が井伊直正に扮して登壇し、信長公の発声とともに勇ましく勝鬨をあげて1日を終えた。
閉会後、今出川氏にお聞きしたところ、コロナ禍により滋賀県と東京都ということで移動が伴うため、なかなか会うことができず、打ち合わせが2回しかできなかったそう。「開催できて本当によかった。これで終わりでは意味がないので毎年行っている法要に今後も織田氏、明智氏をご案内していけたら」とほっとした表情で話してくださった。
取材の中で今出川さんから織田氏、明智氏とも「延暦寺に足を向けることはできなかった。今回やっと来ることができた」と言われていた、と教えていただいた。450年経って大きな一歩を歩んだ両者。歴史好きでなくても、今後の新たな関係に期待したくなる。
(まいどなニュース特約・藤原 玉美)