妻の妊娠発覚直後に、うつ病で無職に「今はゆっくりしても」妻の言葉に甘え、支えられた 36歳の手記
仕事を持ち、愛する人と結婚して、宝物のような我が子を授かる…。端から見れば「幸せの絶頂」とも見えそうな瞬間に、心を病み、仕事を失ってしまったら?それが、ぼくです。妊娠が分かった直後にうつ病で無職になったぼくを救ってくれたのは、奥さんでした。そして「フリーランス兼主夫」を目指したのですが…。道のりは簡単ではありませんでした。紆余曲折の末、障害者として生きることを決めるまでをつづります。(全5回の2回目)
■「今はゆっくりしてもいいんじゃない?」その言葉に甘え、支えられた
うつ病で仕事を退職し無職となり、半年ほどが経った秋頃。相変わらず調子の悪い日が続きながらも、一定の調子をキープできていたのは、産休に入っていた奥さんのおかげでした。妊娠中の適度な運動に付き合い、一緒に散歩に出かけたりしました。料理や掃除も積極的に行い「調子が良いな」と感じる日も多かったように思います。張り詰め続けて疲弊していたサラリーマン時代に比べると、遥かに穏やかな気持ちで過ごせていました。
もちろんお金やこれからの育児への不安はありました。しかし、奥さんは「今は一旦ゆっくりしてても良いんじゃない?」と。僕はその言葉に甘え、そして支えられていました。
出産予定日が1カ月後に迫り、奥さんは里帰りすることになりました。しばらくの間一人暮らし、結婚するまでは一人だったし生活に問題はないように思っていましたが…うつ病になってひとりきりになるのは初めて。ぼくの生活は乱れ切ってしまいました。
■「いい年をして無職」「世間から逃げたい」不安と焦りで昼夜逆転に
誰にも迷惑をかけることがないから、家事はろくに行いません。もちろん運動しようという気持ちにもなれず、引きこもるだけの生活に。次第に昼夜が逆転した生活になりました。
昼夜逆転の理由は、世間から逃げるため。みんなが活動している日中は、無職のぼくにとってとても居心地の悪い世界でした。ましてや誰かに会うなんてもってのほか。うつ病になったこと、いい年をして無職なこと。罪悪感、情けなさ、申し訳なさ、焦り、不安などに押しつぶされます。逆に、みんなが寝静まっている夜中は心が落ち着きました。
誰とも関わらず、当時何をして時間を潰していたのか…いまだにあまり思い出せません。YouTubeを見たり、漫画を読んだりして、ただただ時間がすぎるのを待っているような状態だったと思います。もちろんお金がないので、遊ぶ物は買えませんでした。昼間は外に出ず、夜中にコンビニに行き、食料を調達する。その時も毎回情けない気持ちになってしまう。深夜にも関わらずアルバイトを頑張っている人がいる。隠れるように生活をしている自分が恥ずかしくてたまりませんでした。
■「フリーランス兼主夫」に見出した希望、そして出産
暗い部屋で布団にくるまり、自分と家族の将来を考えました。どういう形で暮らしていくのが、自分と家族にとってベストなのか。「稼がなきゃ」と思ってはいるものの、社会復帰となると、あの頃の苦しさが蘇り、動けなくなる。そこでぼくが出した結論は「フリーランス兼主夫」でした。会社に所属しなければ、人間関係に悩むこともありません。主夫の仕事も並行すれば、奥さんへの後ろめたさもなくなるし家族に貢献できる。こう決意すると、少し心が軽くなりました。目標ができたことで、心の安定と少しのやる気を取り戻したのです。
当時、フリーランスという言葉は流行していて、独立して稼いでいるという情報はありました。ぼくには特別なスキルはありませんでしたが、クラウドソーシングサイトでWEBライティングの仕事を始めることにしました。
文章を書くことに抵抗はなかったので、仕事への取り掛かりはスムーズでした。時間をかければかけるだけ、稼ぐことはできます。扶養内でパートに行く程度には、すぐに稼げるようになりました。何より良かったのは、夜中でも仕事ができることです。日中のつらさは緩和されていなかったので、時間を選ばずに仕事ができるのは大きな魅力でした。
このような日々を過ごしていた冬のある日、とうとう奥さんから「おしるし」の連絡がきました。ぼくは急いで奥さんの実家に駆けつけ、出産に立ち会います。比較的スムーズにお産は進み、無事に元気な女の子が生まれました。初めて抱っこした時の感覚を忘れることはできません。とても小さく温かく、そして尊く、守りたくなる存在でした。そんな気持ちになったのは、生まれて初めてでした。
ぼくは改めて「フリーランス兼主夫」として頑張ろうと、強く決意しました。でも、ぼくはまだ、この病気の本当の難しさを知りませんでした。病はまだ心の底に潜んでいたのです。
(まいどなニュース特約・かいぞう)