27年前の現場 手掛かりは「MAZDA」の看板 阪神・淡路の記憶をたどる
目の前には、まるで爆撃に遭った後みたいな焼け野原が広がっていた。自分がどこに立っているのか、正しく把握するのが難しいほど何もなかった。今はどうなっているのか? あの地の正確な場所を知りたい。当時撮影した写真と取材ノートを手がかりに、27年前の取材ポイントを訪ねてみた。
■火災で焼き尽くされたあの街の今は?
1995年1月17日午前5時46分52秒、マグニチュード7.3の直下型地震が阪神地方を襲った。未曽有の大災害は阪神・淡路大震災と呼ばれ、27年経った今も語り継がれている。犠牲者数は6434人。2011年の東日本大震災までは、自然災害による被害では戦後最悪だった。
取材のため筆者が初めて現地を訪れたのは、発災直後の混乱がいくらか落ち着きをみせ始めた3月初めのこと。ある雑誌で4ページ半の特集記事を書くための取材だった。受注から入稿まで1週間というタイトなスケジュールで、取材はかなりの強行軍となった。
発災から2カ月経っていたとはいえ、取り壊しの順番を待つ黒焦げのビルや、割れたガラスが路上に散乱したままの場所もあっちこっちに残っていた。
今も鮮明に記憶している光景は、JR新長田駅から須磨方向へ5分ばかり歩いた須磨区千歳町の惨状だ。
まさに焼け野原。街が地上から消滅したような印象だった。すでに瓦礫が撤去されたのか、一戸建ての住宅は跡形もなくなっており、鉄筋コンクリートの建物は取り壊し作業が行われていた。まだ手付かずのビルは黒焦げの姿を晒して、火災の激しさを物語っていた。
この取材のあと毎年1月になると震災のことが意識に上ってくるようになって、当時取材した場所を再び訪れてみようと思い立った。
■取材メモと写真が頼り…あの日の場所を確定する作業
筆者が写真に収めた焼け野原が千歳町と分かったのは、取材から18年を経た2013年のことだ。
発災直後は鉄道が寸断され、代替バスが運行されていた。だが、乗り場の行列に並ぶ時間を惜しんで主に徒歩で移動していたせいもあって、訪れた場所を詳細に記録していなかった。
それでも「行けば思い出すだろう」と安易に考えて出かけたが、その考えは甘かった。新長田駅の周辺は、18年の間に一変していた。新しいビルが建ち並んで、27年前とは別世界と化した街並みからは、記憶の糸口すら掴めなかった。
仕切り直しだ。当時の取材メモを、押入れから引っ張り出した。被災地を撮影した写真はCD-ROMに焼いてあった。それを再生して、手掛かりを探す。
有力な手掛かりになったのは、黒焦げになったビルの屋上にほぼ無傷で残っている「MAZDA」の看板だった。ここに営業所があったのだろう。震災前の地図と照合すれば、場所が分かるはずだ。
その地図はどこにある? ネット検索してみると「神戸大学震災文庫」に、震災前の市街地図が保管されていることが分かった。
震災文庫は、阪神・淡路大震災の被害・救援・復興などに関するあらゆる資料や文献を収集・保管し、復興や地震研究のために役立てることを目的として、1995年10月に開設された機関だ。
メールで問い合わせると「来ていただいたら閲覧できます」との返信が来たので、訪ねることにした。
地図が収められている書架に案内され、記憶を頼りに新長田駅から徒歩圏内と思しき範囲で、MAZDAの営業所を探す。
JR線の高架から、さほど遠くなかったはず。丹念に探していくと、須磨区千歳町1丁目に「マツダ長田」の表記をみつけた。MAZDAの営業所は、道路を挟んで小学校に隣接していたようだ。念のため、その近辺にもないか見渡してみるが、MAZDAの営業所はそこだけだった。焼け残った看板の場所は、ここで間違いないようだ。
地図を頼りに千歳町へ行ってみた。もともと千歳小学校があった場所が千歳公園になっている。座面を外したら竈(かまど)に転用できるベンチのほか、防火水槽や井戸も備えているという。
取材で撮影した写真と周囲の光景を見比べながら、当時撮影したポイントを探していると、看板の左に写り込んでいるマンションの塔屋が、当時のまま残っていることに気づいた。この場所に間違いないことを確信した。日光の当たり方で、写真ではシルエットが異なって見えるが、現物で確認している。
同じ千歳町で、確かめたい場所がもうひとつあった。はるか向こうまで続く道路の両側が、ほぼ更地になってしまっている写真の場所だ。MAZDAの看板の近くで撮った記憶はある。
手掛かりは、焼け野原の向こうにうっすらと見えるビルだ。倒壊もせず火災にも遭わず、きれいに残っている。地図上で中央幹線と表記のある道路の北側は、延焼を免れたようだ。
そのビルが当時のまま残っていたのが有力な手掛かりになって、千歳町1丁目と4丁目の境界にあたる道路だと分かった。
■新長田駅前の焼け焦げたビルは今年になってから判明
新長田駅の南側の地域も大きな被害を受けていた。当時撮影した写真の中に「マルフク」の赤い看板がかかったビルがある。火災に焼かれたのだろう。壁面が真っ黒に焦げている。
このビルも「たぶん新長田駅の近くで撮った」という曖昧な記憶しかない。その場所が判明したのは、2022年が明けてからのこと。神戸新聞社が制作した「阪神・淡路大震災デジタルマップ」を閲覧したところ、筆者が撮影した同じビルの写真をみつけた。道路に面したビルが、大きな炎に包まれている。そのビルこそ、筆者が撮影した同じマルフクの看板のあるビルだった。今はアスタクエスタというビルが建っている。
■ストリートビューで発見…倒壊したビルの両隣は現在もそのまま
27年前の3月、阪神本線は「御影」から「西灘」の間がまだ不通で、駅と駅の間を繋ぐバスが運行されていた。通常の路線バスも運行されていたが、交通事情に不案内な土地での移動は、徒歩が確実と考えた。この日、阪神電車に乗った理由は思い出せないが「御影」で降りて、このあと取材するつもりの避難所を目指して、灘区篠原中町まで歩いたことが取材メモから分かった。その途中「石屋川」駅の近くに、倒壊した高架を鉄骨で支えてある現場があった。「まわり道」の案内が写り込んでいたのが幸いして、この場所が御影石町2丁目であることと、石屋川駅方向を見て撮影したことが確認できた。
さらに歩いていくと、ビルの倒壊現場があった。もっともビルの倒壊なんて珍しくなかったが、状況が珍しかった。1階部分が崩れ落ちてしまったビルの両側に建っているビルが、外から見た感じではほぼ無傷なのだ。皮肉なことに、倒壊していたビルは建設会社だった。
この現場がどこなのか、当時の市街地図を見ても分からない。ストリートビューで、御影駅から篠原中町への道のりをたどってみることにした。写真に写り込んでいる建物や風景が、今もあるかもしれない。歩いた道順を憶えていないので、まずは最短コースをたどってみる。当時もきっと、そうしたはずだからだ。
将軍通線でJR線の下をくぐって間もなく、千旦通3丁目の道路に面した2棟のビルに目が留まった。写真では何度も目にしていた建物が、ほぼ当時の姿のままそこにあった。間に挟まれた建設会社のビルはなく、駐車場になっていた。
今回は5か所、27年前に撮影し2013年に探し当てた場所を、今年あらためて訪れてみた。
いったん元通りになった後も、街の様相はどんどん変わっていく。「住んでいる街の“今”」を画像や映像で残しておくことは、たいへん価値のあることだと思う。
(まいどなニュース特約・平藤 清刀)