春を呼ぶ風物詩、奈良・東大寺二月堂の「お水取り」の神秘 古都と若狭を結ぶ歴史ロマン

 奈良の東大寺二月堂で行われるお水取り。毎年、これが終わると近畿に春がやってくると言われます。大きな籠松明が二月堂の廊下を走る姿がニュースでもよく紹介されますよね。しかしこの「お水取り」とは、いったいどういう行事なのでしょうか。

■「修二会」という法会の一部分です

 正式には「修二会」(しゅにえ)と呼ばれる法会(ほうえ)で、「お水取り」はそのクライマックスの一部分です。

 修二会の目的は、仏様の前で罪過を懺悔することです。練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる十一人の僧侶が、ご本尊の十一面観音の前で懺悔をして天下の安泰や五穀豊穣などのお祈りをするのです。

 修二会の本行は三月一日から十四日までですが、練行衆はその前、二月中から「別火」という前行に入ります。この行は合宿で、自由にものを食べたり境内から出たりすることが禁止されます。続いて二月二十六日には総別火という行に入り、これ以降練行衆は紙で作った衣を着て、土の上に降りることや私語が禁じられます。火の気の一切ない生活で、お湯やお茶も自由に飲めません。

 二月堂は奈良盆地のやや高い場所にありますが、この時期の底冷えは厳しく、お灯明の油が凍ることもあるといいます。また、たとえ家族にご不幸があっても行の途中で抜けることはできないので、練行衆の任命にはその辺りも考慮されると聞きます。

■練行衆の足元を照らす「お松明」

 本行の期間、お堂に上がる練行衆の足元を照らすために、童子が松明をかざして先導をします。そして練行衆が入堂したあと、童子はその松明を振り回しながら舞台を進みます。「お松明」と呼ばれる、お水取りでは一番メジャーなシーンですね。

 国宝に指定されている二月堂で巨大な松明を振り回す。これはちょっとどきどきします。だいたい足元を照らすのになんであんなに大きな松明が必要なのでしょうか。これはもともと小さな松明だったものが、江戸時代にだんだん大きくなったのだそうです。童子が見せ場を欲しがったから、なんだとか。結構フリーダムですね。

■「お水取り」と「お水送り」、若狭と奈良の春を繋ぐ

 その修二会の終盤、三月十三日の未明に、二月堂の若狭井と呼ばれる井戸から御香水(おこうずい)を汲み上げる「お水取り」が行われます。

 御香水とはご本尊に供えたり、供花の水として使ったりするための水です。そしてこの御香水は若狭から地下を通ってやってくる、とされています。

 大仏開眼の折、修二会のために二月堂に神々が呼ばれて集まっていたときに、若狭国の遠敷明神は釣りに夢中になっていて遅刻してしまいました。他の神様方からは「そら、あかんやろ」と咎められたのだそうです。それで「これは失礼、お詫びに御香水を二月堂の本尊に献じましょう」ということになって、二月堂の下の大岩の前で祈ると、岩が二つに割れて黒と白の鵜が飛び立って、その後から御香水が湧き出たのだそうです。それが、今の若狭井とされています。

 ちなみに二月堂の御本尊は十一面観音ですが、絶対の秘仏とされていて練行衆も見ることを許されていません。神秘というかロマンというか、さすが奈良という感じですね。

 さて、この「お水取り」は御香水を汲み上げる行事ですが、この十日前、三月二日の夜に若狭の小浜では「お水送り」が行われます。若狭神宮寺の閼伽井(あかい)から汲み上げた御香水を、遠敷川の鵜の瀬という淵に注ぎ込むのです。

 鵜の瀬。そうです、二月堂の岩が割れて飛び出した二羽の鵜は、ここから飛び込んで地下を通って行った、と言われているのですね。遠敷川の鵜の瀬と二月堂の若狭井が地下で繋がっている、と。

 若狭神宮寺から鵜の瀬まで、御香水は日が暮れた後に一般の人も参加する松明行列で運ばれます。二十時頃に鵜の瀬に到着すると、松明の火を移して大護摩供が行われます。そして二十時三十分頃、送水神事が営まれるのです。

 お水送りで注がれた御香水は地下を通って、十日かけて二月堂の若狭井に届く。それを汲み上げるのがお水取り。なんというか、気宇壮大なお話ですよね。

 お水送りは例年大勢の見物客で賑わいますが、今年は新型コロナ感染対策で一般公開されず、神事関係者のみで斉行されます。またお水取りも、御松明は人数を制限して公開されますが、三月十二日の籠松明は非公開です。

 若狭と近畿に春を呼ぶ風物詩。来年こそは平常に戻って、拝観できるようになってほしいものですね。

(まいどなニュース特約・小嶋 あきら)

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