豊田真由子が知る安倍元総理、面倒見良く気配りができる大先輩 「うちの豊田をぜひよろしくお願いします」
安倍晋三元内閣総理大臣が、参院選の応援演説中に、銃撃を受けて、亡くなりました。清和会(安倍派)の一員であった者として、悲しく悔しく、残念でなりません。
ご葬儀の日には、本当にたくさんの方が沿道に集まり、棺に向かって手を合わせられ、各地の献花台にも長い列が続きました。
連載で今回の参院選について書くにあたり、やはりまず、安倍元総理についてお話しをさせていただきたいと思いました。
安倍元総理は、本当にお優しい方でした。
わたくしは2012年の衆院選初当選時に、安倍総理(当時)から「ぜひうちの派閥に入ってよ」とお誘いいただいて清和会に入り、以来大変お世話になりました。
テレビでは激しい国会論戦がよく映し出され、強気の方といった印象があるかもしれませんが、本当は、とてもお優しく繊細で、快活でユーモアに溢れた方でした。意地悪やマウント取り合戦が渦巻く政界で、そういう類のことをなさらない方でした。
こまやかな気配りを常にされる方でもありました。国会議事堂の廊下やホテルの会場等で、多くの方に囲まれた安倍総理がお通りになるのを、私が通路の隅っこで控えていると、必ず気付いてくださって、右手を挙げて、お声をかけてくださいました。食事の席でも、常にその場の全員に目を配り、話しかけていらっしゃいました。
私のような若輩の者にも気を遣ってくださり、多くの議員にとって、本当に面倒見の良い、頼れる大先輩でした。
私が階段から突き落とされて足を骨折するなど、地元政界で苛烈ないじめに遭っている(←有力家系出身ではない一般の新人候補・議員あるあるです)ということがお耳に入ると、安倍総理は、観閲式で地元にお越しになる機会にあわせて、地元政界の有力者に直接電話をかけ、「うちの豊田をぜひよろしくお願いします」と言ってくださったと、側近の方と、後にご本人からもうかがいました。
幾多の挫折も経験されています。第一次安倍政権退陣の反省を、常に深く心に刻んでおられました。長い間、難病に苦しめられてもいました。政治家一族ですから、長きに渡り、いろんな裏切りにも直面してこられたと思います。そういったことを、すべて飲み込んで、いつもニコニコと笑顔でいらっしゃった。本当の意味で強い方で、人の気持ちがちゃんと分かる方でした。
また安倍元総理は、「日本の顔」として、国際社会における日本の存在感を格段に高めました。2018年G7サミットにおいて、貿易問題を巡り、米欧が激しく対立した際は、仲介役となり、トランプ米大統領も「シンゾーが言うなら」ということで、合意に至りました。
このたびの訃報に接し、多くの首脳が哀悼の意を表し、インドは国を挙げて喪に服し、国連安全保障理事会では黙とうが捧げられました。各国首脳のメッセージは、形式的でない心のこもったもので、安倍元総理が、それぞれの方と時間をかけて、誠実に信頼関係を構築してきたことがよく分かります。安倍元総理の確固たる信念・国家観、国を思う気持ち、経験や品格、そして人を惹きつける魅力は、卓越したものだったと思います。
もちろん、長期に渡った安倍政権の運営や政策には、賛否も評価もいろいろあると思います。与党がそれを真摯に受けとめ考えていくことが、とても重要だと思います。
ただ、安倍元総理は、日本を誇りある国として、国と国民を守っていくということを常に考え、私心無く、ひたすら歩み続けてこられた方でした。楽な道を選ぶことをせず、「これが日本のためになる」と思えば、どんなに困難でも、必死で実現させようと力を尽くしてこられました。
ご葬儀で、昭恵夫人が「政治家としてやり残したことはたくさんあったと思いますが、種をいっぱいまいているので、それが芽吹くことでしょう。」とおっしゃられました。
献花に来られた何人もの方が、インタビューで「長年総理を務めた安倍さんの姿を見てきた。日本のことについて、自分も考えていきたい。」という趣旨のことをおっしゃっていました。
安倍元総理のまかれたたくさんの種は、永田町だけでなく、まさに日本のいろいろな場所で、芽吹き、そして花を咲かせていくだろうと思います。
本当にありがとうございました。安倍元総理の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。
◆豊田 真由子 1974年生まれ、千葉県船橋市出身。東京大学法学部を卒業後、厚生労働省に入省。ハーバード大学大学院へ国費留学、理学修士号(公衆衛生学)を取得。 医療、介護、福祉、保育、戦没者援護等、幅広い政策立案を担当し、金融庁にも出向。2009年、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部一等書記官として、新型インフルエンザパンデミックにWHOとともに対処した。衆議院議員2期、文部科学大臣政務官、オリンピック・パラリンピック大臣政務官などを務めた。