見るものに問いかける、なぜ悲惨な目に合わなければならなかったのか? 「一九四六」神戸展

先日「一九四六」神戸展(兵庫県原田の森ギャラリー)にいってきた。「一九四六」は、魯迅美術学院・王希奇教授が5年間半の歳月をかけ完成させた縦3m横20mの絵画だ。その題材はまさに1946年、葫蘆島から舞鶴港へ向かう引揚船だ。突堤に停泊中の船に乗り込もうとする日本人の長蛇の列が描かれている。

葫蘆島からの引揚者は約105万人だった。当時、中国国内は国共対立の状態であり、そこに米国が加わって在満邦人の送還を決めた。舞鶴港には13年間で延べ346隻もの入港があったそうだ。

この絵画に描かれているのは女性や子供たちが大半だが、なかでも遺骨を抱いた男装の少女や小さな子をおぶった少女の睨みつけるような眼差しは注意を引く。ここに描かれている人達は、満州北部の都市や農村の民衆で苦難を強いられた満州開拓団の人たちだ。

満蒙開拓政策は国策であった。しかし、積極的に推進するかしないかは地方行政の裁量に委ねられていたようだ。そのあたりの経緯を示したものとして「満州開拓団顕彰碑」が各地に残っている。その碑文は、たいてい三部構成になっているという。第一が開拓団の入植経緯の説明、第二が経験した逃避行の悲劇の記述、第三が開拓記念と犠牲者への追悼・平和記念の記述である。

なかでも逃避行の悲劇はソ連軍の侵攻によって開拓地の生活が破壊されてしまい、悲惨な状況に晒された犠牲者たちを弔うことが主題である。そして、なぜ多くの人々が死ななければならなかったのか、どうしてこれほどまでに悲惨な目に合わなければならなかったのか、と見るものに問いかけてくる。

私の父は戸籍によると昭和3年、朝鮮仁川府にて出生、やはり引揚者だった。父は当時(1945年~)のソ連軍人を軽蔑していた。逃避行の末、命辛辛帰国したことを断片的にではあるが聞いている。できれば「一九四六」を一緒に鑑賞して感想を聞きたかった。父は令和2年2月に他界した。

蝉は夏を知らないといわれる。春も秋も知らないうちに命を終えるため、その季節が夏であることを知る由もないという意味だ。我々はどうか。人生百年時代といわれるが、長生きしてもたかだか百年ちょっとである。また、いまの世界の中にいて偏った見方しかできないだろう。しかしながら、蝉とは違って様々な人から話を聞いたり、書物を読んだりすることができる。そして無知であることを知る。例えばいま「満蒙開拓」の歴史について知ることは未来の為にも有意義なのではないだろうか。

参考:【王希奇画伯の大作「1946」と歴史認識】京都大学文学博士 井口和起(京都府立京都学歴彩館顧問・京都府立大学元学長・福知山公立大学名誉学長)

◆北御門 孝 税理士。平成7年阪神大震災の年に税理士試験に合格し、平成8年2月税理士登録、平成10年11月独立開業。経営革新等認定支援機関として中小企業の経営支援。遺言・相続・家族信託をテーマにセミナー講師を務める。

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