何かおかしいぞ…どこもかしこもおじさんがのさばる社会 北陸発ドキュメンタリー「裸のムラ」が暴くパターナリズムの滑稽さ
まだ誰もいない無音の県議会議場。知事の席に女性職員がお茶を運んでくる。ガラス製の茶器についた水滴を丁寧に拭き取り、角度を確かめながらグラスをセットする。
あるいは、知事選に勝利した男性候補者に、女性たちが笑顔で花束を手渡す。どこの選挙でも“当たり前”のようによく見られる光景が、カメラの前で繰り広げられる。
今、北陸のテレビ局が滅法面白い。その“震源地”は石川テレビの記者、五百旗頭幸男さん。監督を務めた新作ドキュメンタリー映画「裸のムラ」が、ポレポレ東中野(東京)、シネモンド(石川県金沢市)を皮切りに全国で順次、公開されている。コロナ禍に翻弄される県政や市井の人々の姿を通じて、保守王国・石川に深く根を張る男性中心主義的な徴(しるし)を丸裸にしていくポリティカル・コメディだ。
「撮りながら感じたのは、やっぱり日本ってどうしようもなく男性中心の『ムラ社会』なんだなということ。必ずしもそれが悪いとは言いませんし、そういう意図を持って描いたつもりもありません。だけどこの映画を見て『何かがおかしいぞ』と感じたなら、もう見て見ぬふりをするのではなく、少しずつでも変わろうと意識し続けてほしい。そうしないと、これから先もこの社会は変わりませんから」
…などとおじさん監督が語ることを、今からおじさん記者が書いていきます。すみません。
■富山市議の不正を追った「はりぼて」で注目
五百旗頭さんは、富山のローカル局チューリップテレビで富山市議の政務活動費に関する不正疑惑を仲間と執念深く追い、14人もの市議が辞職するという市を揺るがす大事件にまで発展した一連の取材(後に「はりぼて」のタイトルで2020年に映画化)で全国的な注目を集めた。
しかしそのハレーションは社内でも大きく、最終的に五百旗頭さんは2020年3月に退社。映画「裸のムラ」は、新天地に選んだ隣県(!)の石川テレビで制作した2本のドキュメンタリー番組「裸のムラ」と「日本国男村」から生まれた一本である。
「未知のウイルスに為政者も市民も大混乱している、その“空気”を描きたいというのが出発点です。取材していくうちに男性中心のムラ社会の実相が見えてきましたが、『空気を描く』という軸は最後までブレていません」
8期30年11カ月(中西陽一氏)、7期28年(谷本正憲氏)という2知事の長期政権が続いた石川県政、同調圧力の強い地方のムラ社会で生きるムスリム一家、そんなしがらみを抜け出して車で移動しながら暮らす「バンライファー」の家族、という一見すると無関係な3つの題材が交互に描かれる構成。正直、とっ散らかっていてちょっとわかりにくいかも…?
「いや、僕の中では狙いは明確で。ムラ社会の象徴としての県政と、そことは離れたところで生きる人たちとの対比です。例えば、為政者の空疎で軽い言葉に比べて、市井の人たちの正直で血の通った言葉の手触りが、どれほど心地良く感じられることか。かと思えば、彼らの中にさえもムラ社会と相似形の家父長制的な空気や忖度があったりするのが垣間見えるようになってきます。人間の複雑で多面的なところを単純化せず、素直に描きました」
「だから確かに、テレビの親切な作りに慣れた人には取っつきにくいかもしれません。そもそも、何か“答え”があるような作品ではありませんし、どう感じるかは人によって絶対違います。とはいえ、3つの題材が地下水脈のようにつながっているのが理解できたときには、皆さんの胸に突き刺さるものがあるのではないかと期待もしています」
■ローカル局でドキュメンタリーを作るということ
同じ北陸の富山から石川のテレビ局に転職して約2年半。あれだけの取材を担当しただけに、人からはよく「どうして東京や大阪に行かなかったのか」と聞かれたそうだが、五百旗頭さんは「その考えはなかった」と言い切る。
「テレビのドキュメンタリー番組は長らく『まず地元の局で放送して、次にあわよくばキー局で全国放送。最終的に何か賞でも取れたら万々歳』というのが成功のモデルケースでした。でもそれって、限りなく可能性が閉ざされた狭い世界だと思うんです」
「今は映画化、配信というルートがあるので、東京をすっ飛ばして一気に海外が射程に入る。となると、キー局よりしがらみの少ない環境で、思い切った番組作りができる地方の方にこそ、むしろ大きな可能性があるように感じられます。ローカル局は経営的に危ないとよく言われますが、ドキュメンタリーに関しては今むちゃくちゃ面白いですし、やり甲斐も手応えも感じています」
だからこそ、だろうか。五百旗頭監督は日本のドキュメンタリー番組の多くが陥っている“ガラパゴス化”に懸念を抱いているという。
「『NHKスペシャル』や『情熱大陸』『プロフェッショナル 仕事の流儀』のような有名番組のフォーマットが、視聴者にも作り手にあまりにも定着、共有されていて、作風の多様性が失われています。また、作り手が視聴者を『下』に見ていることも一因かもしれません。子供からお年寄りまで、他の作業をしながらでもわかるようにという配慮が、結果的に作りの幅を狭めているんです」
「先ほど今回の『裸のムラ』がわかりにくいのではという話がありましたが、海外のドキュメンタリー作品と比べたら、別になんてことないんですよ。ナレーションを入れないのだって、珍しい手法ではありません。これだけ映像配信サービスが充実し、世界中のドキュメンタリーも気軽に見られるようになった今、日本のドキュメンタリー番組の“普通”が、世界的には決して“普通”ではないということに気づく視聴者も増えていくんじゃないでしょうか」
■「何かがおかしい」という小さな違和感を見過ごさない
従来のテレビ報道にはなかった視点で、北陸を拠点に次々と話題作を放つ五百旗頭さん。その独自の視点や姿勢はどのように生まれたのだろう。
「自分が兵庫県出身だったり、石川の前には富山のテレビ局にいたりするので、『五百旗頭は“よそ者”だからそんな取材ができるんだ』と言われることもあります。もちろん、外から来たからこそ見える部分もあるでしょうが、正直、『僕の仕事をそんな簡単な言葉で片づけるなよ』とも思います(笑)」
「僕が大事にしているのは、肌感覚や小さな違和感です。例えば県政の取材では、知事に忖度したりメディアを警戒したりする県職員の何気ない動きから、ある種の本質がふと顔を覗かせる。他の取材者は撮らないような些細な動きですが、僕はそこを狙います。撮り方をちょっと変えると、『おかしい』と感じることをこれまでにない切り口で描けることがある。当然、既存メディアの凝り固まった取材に対するアンチテーゼの意図も込めています」
前作「はりぼて」は思いの外、若い人たちが見てくれたと嬉しそうに語る五百旗頭さん。「ドキュメンタリーは意識の高い中高年が見るものと思われがちですが、そんな堅苦しいものではありません。一筋縄ではいかないコメディに仕上がった『裸のムラ』も、若い世代に面白がってもらいたいですね」
(まいどなニュース・黒川 裕生)