故井坂さんが情熱を注いだ「掛布監督」~鉄爺、友と会う#8
昨年12月28日にすい臓がんで亡くなった元日刊スポーツ記者、前大阪府和泉市長の井坂善行さんの思い出を語り合おうと、掛布会のメンバーが1月18日夜、大阪で集まった。
1988年に掛布さんが現役を引退したオフ、特に親しかったマスコミ関係者で「31番にこれまでのお礼をしよう」と集まり、心づくしの記念品を掛布さんに渡した。その場で自然に掛布会を作ろうという流れになった。当初メンバーは掛布さんプラス8人。その後、元関西テレビの浜口さんが他界され、元スポーツ報知の浜田さんは東京へ移住、元共同通信の平野さんは故郷の秋田へ帰った。
その日駆けつけた残り5人は元スポーツニッポンの合田さん、元大阪新聞の西井さん、元スポーツ報知の世良さん元サンケイスポーツの田所さんと私。これに阪神タイガース元球団社長の南さんも加わってくれ、掛布さん本人を合わせて7人での集まりとなった。
ひとりひとりの顔を見渡しながら、手元のスマホで計算してみると7人の平均年齢は68.9歳になる。亡くなった井坂さんは間もなく68歳の誕生日を迎える年齢だった。会がスタートして34年。皆、年を取った。
最後に井坂さんと会ったのは掛布さんだ。11月半ば、本人から「帽子にサインを書いてくれないか。闘病の支えにしたいから」と頼まれ、井坂さんの自宅近くのホテルに足を運んだ。奥さんが付き添っていた。1回目の抗がん剤治療を中断したタイミングだった。やせこけて驚くほど顔が小さくなっており、サインをした帽子を喜んで被ったその様子が、まるで幼稚園の子供が大人の帽子を被っているかのように見えて目をそむけずにはいられなかったと聞かされた。抗がん材治療の中断は体力がもたなかったせいではないのか、という想像が頭をよぎったという。
その直後、掛布さんからかかってきた電話で「長くはもたないかもしれない」と聞かされた。そのわずか40日後に予感が現実となった。顔を見るどころか、病床からの電話で一度話したきりの別れとなった
南さんは球団社長時代、いわば一般人の立場の井坂さんからの電話をしょっちゅう受けた。「掛布監督、何とかなりませんか」。当時、同じことをいつも南さんに訴えかけていた人がいる。2015年9月23日、チームの遠征先の東京のホテルで亡くなっているのが見つかった当時の阪神タイガースGM、中村勝広さんだ。掛布さんにとっては千葉県出身の先輩でもある。中村さんも「カケに監督をやらさんとアカン」と言いながらこの世を去った。
メンバーの西井さんが、井坂さんの掛布監督実現に対する熱い思いに打たれたのは中村GMが亡くなった後のこと。西井さんは監督就任への足掛かりにでもなれば、という思いで「中村さんの後任のGMに掛布以外の適任はおらんやろ」と話したことがあるのだという。するとこれに井坂さんが血相を変えてかみついた。「GMじゃない!!監督や」。井坂さんは亡くなるまでこの夢に対する情熱を貫いた。
3時間ばかり、7人でグラスを傾けながら、あんなこともあった、こんなこともあった、と故人の懐かしい思い出を語り合った。34年の間に数えきれないほど開いてきた飲み会、年に一度の旅行、そのすべてに皆勤したメンバーがいなくなった。テーブルを見渡しても、記念写真を撮影していても、何かポッカリ穴のあいたような感覚が心から離れない。
残ったメンバーでまたどこか旅行でも行こうや…誰からともなくそんな声が上がった。
この喪失感から立ち直ることができる日は、いつ来るのだろうか。
(掛布さん、世良さんと3人で語り合ったYouTube公式チャンネル「掛布雅之の憧球」は配信中)
(まいどなニュース特約・沼田 伸彦)