侍ジャパン応援団長の男性、応援に人生捧げて28年 3年ぶりの全力声援に感無量
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)準々決勝を前に、侍ジャパン応援団の取りまとめをしている吉原秀貴さん(43)=福岡県宇美町=を取材しました。高校生の時にプロ野球・ダイエー(当時)の応援団に入り、外野スタンドで声援をリードし続けてきた吉原さん。新型コロナ禍では約3年、声を出したりトランペットを使ったりする応援ができませんでした。「これまでの応援文化がすたれて、応援団なんていらないと言われる日がくるんじゃないか」。そんな不安は、侍ジャパン応援スタンドの大声援・大合唱で吹き飛びました。
ホークスの親会社が南海からダイエーに変わり、本拠地を福岡に移したのは1989年。吉原さんは小中学生の間、足繁く球場に通い、高校1年生で応援団の門をたたきました。当時のダイエーは暗黒時代の真っ只中でしたが、吉原さんは未経験のトランペットを必死で練習するなど活動にのめりこんでいきます。
99年にダイエーは初優勝。歓喜の瞬間ももちろん現地で応援しており、涙がかれるほど仲間たちと喜びを分かち合いました。「ホークスに人生を捧げよう」。そう決めた吉原さん。試合のスケジュールに合わせて体を空けておけるようにと、就職はせずアルバイトで生計を立てることにしました。試合がある限り全国各地を飛び回ってきましたが、試合チケットや交通費はもちろん自腹。夜行バスを使ったり、友人宅に泊まらせてもらったりして生活を切り詰めてきました。親会社がソフトバンクに変わってもホークス愛は変わらず。現在、私設応援団「九州鷹狂(たかきち)会」代表を務めます。
■ 応援文化が変わってしまう不安
コロナ禍で声出し応援ができなかった丸3年、苦い思いをし続けました。録音した応援歌を球場内のスピーカーで流してはもらえるものの、音量は控えめで、ファンもメガホンや手をたたくことしかできません。日本野球の外野スタンドが30年以上培ってきた迫力ある応援スタイルは鳴りを潜めました。3年もその状態が続くと「お客さんがこの環境に慣れてしまっているのでは」と不安がよぎりました。「コロナ禍が明けてもトランペットはうるさいから生演奏するな、となるんじゃないかと…」
侍ジャパンの応援団は12球団から数人ずつが参加して構成されています。声出し応援が解禁されると知った時の気持ちを聞くと「ちゃんとトランペット吹けるか不安でね~」と冗談めかす吉原さんですが、やはり飛びあがるほどうれしかったそうです。強化試合が2月下旬から始まり、応援団活動も本格化。前述の「応援文化がすたれたのでは」という不安は吹き込びました。
「みなさん、贔屓球団以外の選手別応援歌も完ぺきに覚えているんですよ!」。マスク越しと感じさせないほど、コロナ前と変わらない迫力ある応援風景が目の前に広がっていました。「やっぱり声出し応援はいいなと。チームが強いこともあってお客さんのボルテージもどんどん増してきています」
■ 山にこもってトランペット練習
応援スタイルは12球団ごとに多種多様。チャンステーマの演奏を始めるタイミングや旗を振る間合いなど細かい点が異なるため、綿密に打ち合わせをします。
普段は演奏しない他球団の選手別応援歌をトランペットで覚えるのも一苦労。それぞれ楽譜を渡し合い、完璧に覚えるまで練習します。音楽スタジオを借りる人もいれば、河原で練習する人も。吉原さんは車で人里離れた山中まで行き、思う存分練習するそうです。ちなみに今回の出場選手の応援歌で習得が難しかったのは、元オリックスでレッドソックスの吉田正尚選手の応援歌。指を素早く動かさなければならず、急激に音程が上がる箇所もあります。それでもファンのため、団員たちは全力で大会に間に合わせてきました。
■ 各国の応援スタイル交わる場に
「アメリカは自然発生的に応援しているし、台湾もそうですけれどアジアは音楽にのせてみんなで一緒に楽しむ文化ですよね」と吉原さん。こうしたさまざまな応援文化が混じり合い、お互いを知る機会としてもWBCを楽しんでいるといいます。
侍ジャパンは準々決勝イタリア戦に勝利すれば、準決勝と決勝が行われる米フロリダ州に向け渡米します。吉原さんは「プレーするのは選手だけれど、僕たちも全力で後押しすれば力を送ることができると思う。みなさんで世界一をつかみ取りましょう!」と呼びかけています。
(まいどなニュース・小森 有喜)