人生初の「紅テント」体験~鉄爺友と会う#13
4月29日の夕刻、大雨の中、楠木正成の騎馬像に迎えられて湊川公園(神戸市兵庫区)に足を踏み入れた。視線の先に鮮やかな朱色のテント群が現れた。この紅(あか)テントは劇作家の唐十郎が主宰する劇団「唐組」を象徴する上演のステージ。28日から30日にかけて神戸公演が行われた。
唐が現在の唐組の前身ともいえる状況劇場を立ち上げたのは1960年代の前半になる。私が1970年代後半に学生生活を送り、映画演劇学を専攻した時代、唐はアングラ演劇の一方の旗手のような存在だった。一方には寺山修司の「天井桟敷」があり、佐藤信らの「黒テント」等々にぎやかな時代だった。
当時、ゼミの担当教授だった山崎正和先生が現役の劇作家であったこともあり、講義の一環としてあれこれの舞台の現場を経験させてもらった。演劇、歌舞伎、能、狂言、文楽、人形浄瑠璃、オペラ、バレエ…劇団四季の看板演目だった「エクウス」を観た後は、狭い楽屋に招かれ、主演の市村正親、代表の浅利慶太さんに直接話をうかがう機会を設けてもらったことも懐かしく思い出す。
ただそんな中で山崎先生がまったく見向きもしなかったのがこのいわゆるアングラ系統の舞台だった。理由を聞いたことはない。いま思えば、その存在を自らが身を置く演劇の世界と同列に評価していなかったのかもしれない。そのせいにするわけではないが、学生時代からこの年齢に至るまで、知る人ぞ知る紅テントの中に身を置いたことがない。
今回の観劇に誘ってくれたのは、かかりつけの歯科医の先生だった。同い年という上に、神戸に本拠があったオリックス・ブルーウェーブ、ラグビーのコベルコ・スティラ-ズのチームドクターだったスポーツ好き。ラグビーW杯を並んで観戦したり、大好きな酒を酌み交わしたり。そんな交流の中で「今度、一緒に紅テント行きませんか?」と声をかけられた。そういえばこの先生、自ら舞台に立つ演劇青年でもあったことを思い出した。
今回の3日間公演の演目は「透明人間」という1990年ごろに寺山自身が書いた作品。唐組にとっては看板演目のひとつなのだそうだ。
前日、ついでがあって下見に訪れた時はのどかな日差しの元だったが、29日は夕刻からざあざあ降り。足元は水たまりだらけで足を踏み出すのも恐る恐るというありさまだった。それでも薄暗い中、ざっと300人ほどの観客が傘をさしてテント付近にたむろしている。テントの大きさと、集まった人数の多さとが頭の中で釣り合わない。
勝手にイメージしていた観客層よりもはるかに平均年齢は若く、女性の比率が高いのにも驚かされた。
狭いテントの入口から中に入ると、脱いだ靴を入れるためのものと、傘を入れるものとビニール袋をふたつ渡され、狭い通路を奥へ、つまりステージの方に進んでいく。通路の両側に板張りの上にゴザを敷いたいわゆる客席が設けられていて、靴を脱いだ人から順に詰めて座っていく。荷物は膝の上に置き、ほぼぎゅうぎゅう詰めになったところで劇団員がひと声。「あと50人ほど外で待っておられます。もう少し前にお詰めください」。全員が行儀よくお尻を前にずらす。「あと30人」、「あと15人」…これを繰り返し、上演時間を20分ほど過ぎた頃にようやく場内が真っ暗になった。
洪水のようなセリフの量、怒鳴りつけるようなしゃべり方、飛び散る唾がすぐそこに見える。話の展開は荒唐無稽。またこれも唐組の舞台の特徴だそうだが、水がよく用いられるため、最前列の客には遊園地のウォータースライダーよろしく、水よけのビニールシートが渡されていた。
思わず吹き出しそうになったのは10分間の途中休憩のとき。観客の多くが一斉に立ち上がった。何をするでもない。固まったヒザと腰を伸ばしてやるため。
人生初体験のテント芝居はまるでワンダーランドだった。
(まいどなニュース特約・沼田 伸彦)