産院の玄関に捨てられ、継父母から虐待を受けて育った女性 “親代わり”になってくれた夫がパーキンソン病に… 「今は毎日恩返し」
「私は出生後実母に産院の玄関に捨てられた孤児で、親に見捨てられたとか親戚や祖父母に預けられたとかではなくて、全くの孤児。親や先祖のことは全然わからず。
でも、その私をずっと支えてくれたのが夫で、継父母が来ない高校の卒業式も私と同い年の夫がスーツ着て出席してくれた。今は毎日その恩返し」
とTwitterに投稿したのは、ranranさん(@ranran556677)
実の両親の愛を全く知らない彼女がどのようにパートナーとの間に愛を育んだのか、話を聞きました。
■卒業式に来てくれた夫
ーー旦那さんとはお互い高校生の時に出会われたのですか?
「夫と私は違う高校に通っていましたが、私は、当時流行っていたディスコに友人の誘いでたまたま行きました。すると、これもまた、たまたま友人に誘われて来ていた夫にナンパされて出会いました。2人とも同じ高3でした。その時私は、夫のことを『ずいぶん地味な人だな』と思いましたが、夫は私を一目見て『この人は僕と結婚する人だ』と思ったそうです(笑)」
ーーその時、ranranさんには恋心は芽生えなかったのですね。
「当時私には付き合ってはいないけど好きな人がいました。でも夫からは毎日電話が来て、『好きな人がいてもいいから付き合ってほしい』と言われて付き合い始めました。好きな人のことは夫と付き合うようになって2カ月ほどで何とも思わなくなり、日に日に夫のことが大好きになっていきました」
ーー出生のことはお話しされたのですか。
「付き合い始めてから私の家庭や生い立ちが普通ではないことを知った夫でしたが、私をよく夫の家の家族旅行や外食の時に一緒に連れて行ってくれたり、夫の家で一緒に食事をさせてくれたりするようになりました。夫の両親や妹はとても温かく優しい人で、私を受け入れてくれ、私は夫の家族と一緒にいる時とても楽しかったです。夫が私の卒業式に出席できたのは、通う高校が違い、卒業式の日にちも違ったからでした。夫は私の後に生まれたのに、ずっと私の親代わりのようでした」
■壮絶な虐待からの解放
ーー継母、継父からは、随分虐待されたそうですね。
「虐待マニア継父母の養子になり、家事をしないと折檻されました。首を絞められたり煙草の火をつけられたり、熱湯をかけられたり包丁を持って追いかけられたり、縛って逆さ吊りにされたりすねを棒で叩かれたり…。家で毎日嫌なことばかりあったので、私は『今日は死ぬ』と夫に言うこともありました。でも、夫はそれについては否定せずに、『死にたくもなるよな、そんな家じゃ』といつも共感してくれて、同時に私を笑わせる話ばかりしていました。私は『私が死んだらこの人はとても悲しむ。この人を悲しませてはいけない』と思うようになりました。同時に、死にたいと思う気持ちもなくなりました」
ーー高校を卒業後、すぐご結婚されたのですか。
「いえ、付き合い始めてから10年後に結婚しました。高校で進路を決める頃、夫から『俺、進学する。友達がいなくて寂しいから一緒に試験受けてくれないか』と言われました。当時トレースの専門学校に進学を決めていたのですが、『受けるだけなら』と軽い気持ちで受けたら2人とも受かり、私も大卒の資格があれば将来のために役立つかもと思い、夫と一緒に通い始めました。夫は教職課程を取り、病気になるまでずっと高校教諭を続けていました」
ーー大学を卒業後、看護学校にも行かれたのですね。
「夜間大学を卒業してから継父が医療事故で他界したことを悔やんで、当時の事務職を辞めて看護師になろうと思いました。夫は『あなたならできる。絶対に看護学校に合格できる。いい看護師になってね』と、受験勉強中もずっと励ましてくれて、試験当日の朝、受験校までわざわざ来て握手してくれました。とにかくどんな小さなことでも『あなたならできる』と言ってくれました。そして、継母が病気がちになり、暴力や虐待もかなり減っていたのと、私自身、看護学生で忙しいけど充実した生活を送っていたこともあり、不幸な毎日ばかりではなくなりました。夫は私を裏切ることは一切なく、いつも『結婚したらこうしようああしよう』という話をしていました」
ーー結婚する時は喜びに溢れていたでしょう。
「結婚する時はもちろん嬉しかったのですが、看護学校卒業の月(3月)と国家試験(2月)が重なってかなり忙しかったため、あまり喜びを噛みしめる暇はありませんでした。でも、その年に結婚すると2人で決めていたので実行するべく頑張りました。式後にようやく嬉しさが込み上げてきた記憶があります。そして晴れて継母と離れて暮らせるという解放感もあって、とてつもない幸福を感じました。継母と離れて暮らす嬉しさで、不安などは一切感じませんでした。夫の幸せそうな家庭を夫に継続して味わってもらいたくて、夫の両親や祖父母とは頻繁に会いました」
■夫のパーキンソン病と未来
ーー旦那さんが病気で寝たきりになっているそうですね。今度は自分が支えると思われたのでしょうか。
「その通りです。夫は49歳でパーキンソン病と診断されました。看護師である私には夫の将来が何となく理解できたので、夫が動けなくなった時には私が全面的に介護しようと決心しました。今まで生きてこられたのは夫の支えや励ましがあったからなので、これからは夫が生きていくために支えるのが私の本分だと思いました。病気のため夫が定年前に中途退職をせざるを得なくて悲しんでいた時にも、私は精神的に支えなくちゃと思いました」
ーーお仕事を続けながらの介護は大変だったのでは。
「夫は退職する時に仕事を辞める悲しさもありましたが、『あなたに負担をかける』とも言って、私に申し訳なさそうにしていました。私が看護師として働いているのにです。夫が1人でご飯が食べられなくなったら私が仕事を辞めることがわかっていたから、夫はしばらく不自由なことを隠していました。でもそれを知った時は逆に夫に対して申し訳なく思い、同時に私に対する愛情を感じ、私は迷うことなく仕事を辞めました」
ーーそれでも、今、お幸せそうですね。
「有難うございます!もちろん辛い時は幾度となくありますが、私の人生そのものが辛さを元にしたものなので、辛い気持ちが薄れるまでジッと我慢して、毎日しなくてはならないことを粛々とこなしてます。そのうちに楽しいことが頭に浮かんできます。若い時は嫌なことがあると喫茶店でコーヒー飲みながら編み物をしていましたが、今はもっぱら夫の顔を眺めたり介護したりやはり編み物したりの毎日です」
ツイートを見た人からは、
「胸が温かくなりました。末長く末永くお幸せに」
「寄り添う人がいる。それは尊いことだと思います。どうかお身体ご自愛下さい」
など、たくさんのリプライが寄せられ、「いいね」は4.3万件にもなりました。
パーキンソン病は、現代の医療では良くなりません。ranranさんは、「若い頃に2人で描いていた未来が変化してしまいました」と言います。「今の目標は、とにかく夫の体調の現状維持しかありません。悪化も進行もしてほしくない。そしてずっと仲良く暮らしていきたい」と語ってくれました。
(まいどなニュース特約・渡辺 陽)