日本人の忘れ物 統治時代の名残伝える古建築や老家屋 台湾の建築と歴史に触れる旅はいかが
コロナ禍による制限が明け、海外旅行者の数も戻りつつあります。コロナ禍前に大ブームだった台湾も人気を取り戻し、渡航者が再び増え始めているそうです。
ところで、台湾を旅行する日本人の中に「台湾が、過去に50年間『日本だった』ことを知らない人がいる」と聞いたことがあります。
愕然とする一方、戦後の日本が微妙な関係になってしまった「台湾のこと」を積極的に教えてこなかったこと、また日本のマスコミも、ほんの12~13年ほど前まで、「台湾のこと」を積極的に触れたがらなかった経緯もあります。そのため、こういった「台湾の認識が極めて薄い人」を単に「無教養だ」とバカにするのも何かちょっと違うようにも思いますが、そんな今日もなお、台湾には台湾人が大切に守り続ける日本統治時代の建築物が多数あります。
こういった建築物ばかりを紹介した本が話題です。『増補版 台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』片倉佳史・著(ウェッジ)です。
■「台湾の専門家」の著者が15年越しでまとめた一冊
片倉さんは1992年に初めて台湾を訪れて、その魅力にハマり結婚した奥さまと移住。台湾の地理、歴史、風俗、文化、グルメと多岐にわたるジャンルを様々なガイドブックや著書で紹介し、前述のような台湾の情報が乏しい時代から、ずっと台湾の魅力を文献を調べ自らの足で取材をし続け発信しています。
現在は、武蔵野大学客員教授としての活動のほか、様々な講演を行い、筆者は「幅広い分野の『台湾』を、日本一知っている日本人」と思っています。現に台湾人の知識人たちでさえ、片倉さんが自らの取材や情報収集で得た「台湾の真実」に驚かされたという例は枚挙にいとまがありません。
そんな片倉さんが15年にわたって写真を撮り、レポートをまとめたのが本書『増補版 台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』です。
■台湾人の保存運動により取り壊しを免れた旧銀行
本書に収録された台北に遺る日本統治時代の建築物は、ゆうに200あまり。台北市内のエリアごとに分けられて紹介されていますが、ここで本書から、その写真と解説を3つ転載して紹介します。
■國立臺灣博物館古生物館(旧日本勧業銀行台北支店)
ここは日本統治下の台北において、台湾銀行本店とともに銀行建築の双璧とされた建物である。日本勧業銀行の台北支店として建てられ、支店を名乗ってはいるものの、実際は台湾における本店機能を併せ持っていた。
<中略>
建物は「威厳を強調したスタイル」とも言える。これは戦前の銀行建築によく見られたもので、道路に面して8本の大列柱が並ぶ様子は壮観だ。外壁には花岡岩や大理石が用いられ、一見して堅固な造りであることがわかる。竣工は1933(昭和8)年。設計は日本勧業銀行営業課が担当した。
<中略>
日本勧業銀行の各店は、終戦を迎えると、中華民国体制に取り込まれ、「臺灣土地銀行」と改められた。この建物は1989年、老朽化を理由に、一度は建て替えが決まったが、熱心な保存運動が起こり、取り壊しを免れた。
長らく店舗としては使用されず、放置されていたが、3年にわたる修復工事を経て、2009年12月26日に「國立臺灣博物館古生物館」として再オープンを果たした。またの名の「土銀博物館」。吹き抜けの館内には、恐竜の展示がなされている。(本書より)
■日本人が多く住んだエリアに遺る洋風建物
日本統治時代に建てられた威厳や風格を感じさせる建築は他にも数多くあります。日本人居住者が多く住んだエリアにある撫臺街洋樓という建築物もそのうちの一つです。
■撫臺街洋樓(旧高石組・佐土原商事)
北門に近い場所に位置する歴史建築。やや雑然とした街並みの中で、個性を放っている。この辺りは清国統治時代は「撫臺街」と呼ばれたが、日本統治時代に入り、1920(大正9)年の地名改正で「大和町」となった。内地人を名乗った日本人居住者が多く住んでいたエリアである。
この建物は「撫臺街洋樓」と呼ばれている。竣工は1910(明治43)年。建設会社の合資会社高石組(のちに株式会社となる)が社屋として建てたものだ。
<中略>
その後、酒造業者であり、酒類の販売も行っていた左土原商事の社屋に変わる。
<中略>
建物を前にしてみると、1階部は石組みの半円アーチとなっている。階下が堅固な造りとなっているのは、安定感を強調したいという建築家の意図を推測できよう。2階部は木造となっており、両者が組み合わさることで優雅な雰囲気が生み出されている。(本書より)
■旧「お屋敷街」に今も遺る日本人大学准教授の邸宅
日本統治時代に建てられた日本式の家屋も、台湾各地に無数に遺っています。本書ではかつての大学の准教授の邸宅が、現在では「和食レストラン」として活用されている例も紹介しています。
■野草居食屋(旧石井稔邸)
汀州路周辺は台北でも指折りの住宅密集地である。終戦までは川端町と呼ばれ、かつては広くて立派な「お屋敷」が並ぶエリアだった。
この家屋は台北帝国大学で教鞭を執った石井稔の邸宅だった。石井は1941(昭和16)年から終戦まで、台北帝大理農学部農芸化学科の助教授(准教授)を務めた人物である。
<中略>
家屋は木造平屋で、現在はY字路の付け根に位置している。広いほうの道路(現名・牯嶺街95巷)は、かつては小川で、小魚などが捕れ、蛍なども多く見られた。しかし、戦後、無秩序な開発により、汚染が進んだ。そして、1990年代初頭には、小川に蓋がかぶせられ、道路となってしまった。
現在は居酒屋兼日本食レストランとなっている。修復は受けているが、老家屋に宿る趣き深さは健在だ。
■初版で収録しきれなかったスポットを増補した一冊
ここまで3つの日本統治時代から今日まで遺る建築物を転載しましたが、本書はこの他にも200あまりの建築物が紹介されています。
現代の日本で「台湾の情報」が極めて限られていたことを鑑みれば、これだけの建築物を撮影し、各所の出自やストーリーを調べあげ解説するということは容易ではないはずです。そこに片倉さんのジャーナリスト魂を感じることに加え「多くの日本人に台湾を知ってほしい」という思い、そして「日本統治時代の建築物を、今日まで大切に守り続けてくれている台湾人への敬意」が強く伝わってくる1冊です。
台湾旅行者や台湾ファンに手にとってほしいことはもちろんですが、冒頭でも触れた「台湾がかつて日本だった」ことを知らない人、台湾・日本の歴史に疎い人にこそ見て欲しい名著です。
担当編集者にも聞いてみました。
「片倉先生の原稿は膨大な知識がわかりやすくまとめられていますし、増補版ではこの数年でリノベーションされ、カフェとして開店した古建築なども収載されています。台湾が好きな自分としても『ここも、こっちも行ってみたい!』と、読者の気分で制作しました。台湾の日本統治時代(1895~1945年)は想像しにくいかもしれませんが、実際に日本人が建てた古建築群は、いまも台湾の方々に大切に使われています。本書は、こうした歴史建築遺産を正しく、長く伝えていこうという、片倉先生のジャーナリストとしてのアツいパッションを感じる内容です。本書を手に台北へお出かけになってみてください。紹介している建築の見学可否などを記載したリストも付録されています」(担当編集者)
(まいどなニュース特約・松田 義人)