「入院中のクラスメイトに千羽鶴を」…協力せず非難されていた男子が、放課後一人向かっていた先は 「折り鶴=良いこと?」ネットで議論
お見舞いの千羽鶴を巡り、小学校で実際に起こった出来事を描いた漫画がSNS上で話題になっています。作者は育児漫画などを手がける作家「アトリエほっかむ」さん。発表から1年以上経った今も注目を集めており、読者からは「病気や災害に千羽鶴はいらない」「あとあと処分に困る」「寄り添う気持ちが大事」「見えないやさしさはわかりにくい」など、さまざまな声が上がっています。
■千羽鶴を折る輪に加わらず、向かった先は…
漫画「千羽鶴と子供たち」のストーリーはこうです。小学生の「スギモトくん」は不慮の事故が原因で歩くことができなくなります。同級生らは相談し、入院中のスギモトくんに千羽鶴を贈り、励まそうとします。そんな中、鶴を折る輪には加わらず、そそくさと下校を続ける男子がいました。同級生たちはそんな態度を非難します。実はこの男子はスギモトくんの病室へ通い、話し相手になっていたのです。
6カ月後、スギモトくんは車椅子で登校を再開します。久しぶりに入った教室で目にしたのは、何度もお見舞いに来てくれた男子が同級生たちに「鶴を折らない自己中」「思いやりがない」などと責め立てられる姿でした。
スギモトくんは意を決して叫びます。「そいつは何度も何度も病院まで会いに来てくれたんやぞ!!おめーらが鶴折ってる間にな」
■ノルマのように折り鶴を折った経験
作者のアトリエほっかむさんに話を聞きました。
──この出来事を知ったときの率直なお気持ちは。
「知人から聞きました。鶴を受け取った子が怒りを表したことに心打たれ、意味があると思って描きました。『あっ、これは、逃しちゃダメなテーマだ』と。全身が粟立つような、武者震いするような感覚もありました。一方で、歩けなくなった子どもが特定されないように、具体的な個人情報は出さないように、登場人物たちの顔も意図して似せていません」
──相当な覚悟を持って作品に。
「寄せられた感想の中には『車椅子の子も自己中』という言葉もありました。そのような矢が飛んでくる可能性も発信者は常に考える必要があると感じています」
──他にも印象に残った感想は。
「NGOの経験者のお話だったかと思いますが、海外の難民の子どもたちに届いた段ボールを開けると、食料品やお菓子ではなく千羽鶴が入っていて、子どもたちが絶望したと。無邪気な無慈悲というか…衣食住を奪われた戦地の子どもたちに千羽鶴だけを送ったことが非常に悲しくて」
──ご自身が千羽鶴を折った記憶は。
「折り鶴や折り紙の日本文化はとても好きです。しかし小学生の時、ノルマのように折り鶴を折った経験があります。放課後も休み時間も費やして。修学旅行で長崎へ行くにあたり1人何羽ずつと決められていたのですが....。指導する大人側に相当な力量がない限り、子どもたちには『よく分からないことでも従うしかない』であるとか、『折り鶴イコール良いこと』というような思考停止の精神が脈々と受け継がれるのでは…という疑問があります。今回、漫画を読んだ人が思考するきっかけになればと思っています」
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アトリエほっかむさんの最新情報は、X(ツイッター、@hockamneco)https://x.com/hockamnecoや、公式サイト「アトリエほっかむ」で。
■広島には「千羽鶴の塔」、WBCでは必勝祈願に
千羽鶴は折り紙で折った鶴を糸でつないだもの。お見舞いのほか、平和や必勝祈願のセレモニーなどでもよく目にします。最近ではワールドベースボールクラシック2023の試合前、日本の小学生たちから各国チームの監督へ贈られました。
広島市によると、折り鶴と平和が結びつけられるようになった背景には、原爆の被害を受けて12歳でこの世を去った佐々木禎子さんの存在がありました。
禎子さんは1945(昭和20)年8月6日、広島に投下された原爆により2歳で被ばく。外傷などもなく、元気に小学校に通っていましたが、小学6年生のときに突然、白血病と診断されました。1955(昭和30)年2月に入院。闘病生活中、禎子さんは「鶴を千羽折れば元気になる」と信じ、包み紙などで鶴を折り続けましたが、同年10月に息を引き取りました。禎子さんら原爆で死亡した子どもたちの霊を慰めようと、1958(昭和33)年に「原爆の子の像」が完成。毎年、国内外から膨大な量の千羽鶴が捧げられ、「千羽鶴の塔」と呼ばれるように鳴りました。現在ではその数、年間約1千万羽、重さ約10トンにも上ります。奉納後の折り鶴は複数の企業などが協力し再生紙として活用しています。
一方で、戦闘が続くウクライナの平和を願って、在日大使館へ千羽鶴を届けようとする動きに対しては迷惑になるという声が上がり、贈り主が断念した例もあります。
(まいどなニュース・金井 かおる)