朝ドラ「ブギウギ」で淡谷のり子がモデルの歌手役を熱演 菊地凛子の名字のルーツ

朝ドラ「ブギウギ」で、淡谷のり子がモデルの茨田りつ子役を務める菊地凛子。

「きくち」と読む名字には、大きく「菊池」と「菊地」の2つがある。この2つの名字は同じルーツである。そのルーツは肥後国菊池郡菊地、現在の熊本県菊池市である。平安時代にここを支配した藤原氏の一族が、地名をとって「菊池」と名乗ったのが始まりだ。

初代は菊池則隆というが、その系図関係には諸説あってはっきりしない。しかし、菊池一族の初期の支配拠点だった「菊池氏遺跡」は今年10月に国史跡に指定するよう答申が出されており、この地で菊池氏が生まれて発展したことは間違いない。

鎌倉中期の蒙古襲来(元寇)では菊池武房が活躍、南北朝時代には一貫して南朝に属してその中心勢力となり、菊池武光は九州全土に勢力を振るった。

その後、北朝方の今川了俊が九州に下向したことで力が衰えた。それでも、兼朝の時に肥後守護を回復すると、以後代々世襲して戦国大名となった。しかし、戦国時代中期に武包(たけかね)が死去すると急速に衰え、大友氏に敗れて嫡流は断絶した。

その際、一族の菊池重為が日向国米良(現在の宮崎県児湯郡西米良村)に逃れて米良氏を名乗り、江戸時代は交代寄合(大身の旗本)となった。この家は明治維新後、名字を「菊池」に戻している。

さて、一時は九州に覇を誇った菊池氏は多くの庶流を出した。しかし、本拠地の菊池一族が衰亡したため、一族は九州を出て各地に広がった。その中で最も繁栄したのが東北に移り住んだ一族である。

そして、東北に移り住んだ一族の一部は、名字を「菊池」から「菊地」にしたという。江戸時代以前は名字は自由に変更することができ、ルーツの地から離れた分家が漢字の一部を変えることはよくあることであった。

こうして誕生した「菊地」一族は本来の「菊池」とともに東北に広がった。

現在は「菊地」が94位で「菊池」が109位と、「菊地」の方がわずかに多い。

ともに東日本に多いが、「菊池」は愛媛県・大分県・宮崎県など、本拠地熊本に近い県にも多い。一方「菊地」は西日本には少なく、栃木県から東北一帯にかけて広がっている。

◆森岡 浩 姓氏研究家。1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部卒。学生時代から独学で名字を研究、文献だけにとらわれず、地名学、民俗学などを幅広く取り入れながら、実証的な研究を続ける。NHK「日本人のおなまえっ!」にコメンテーターとして出演中。著書は「47都道府県名字百科」「全国名字大事典」「日本名門名家大事典」など多数。

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