大樹を切ろうとして米軍関係者が負傷!?…もとは焼け野原に作られた占領下の飛行場 大阪・都心のオアシス「靱公園」の知られざる過去
大阪市西区の東北部、四ツ橋筋とあみだ池筋に挟まれたエリアに、東西に細長い「靭(うつぼ)公園」がある。実はこの場所、終戦後に米軍がつくった飛行場の跡地。しかも建設工事に際して、もともと神社の境内に当たる場所にあった楠の大木を切ろうとした工事関係者が、腕を切断する大ケガを負ったというエピソードも残っているという。
■住民が止めるもの聞かず樹齢900年の木を切ろうとした作業員が大ケガ
靭公園は東西約800m、南北約150mの細長い形をした公園で、国際大会にも対応できるという16面のテニスコートがある。またバラ園やケヤキ並木なども整備されて、市民の憩いの場となっている。
今は真ん中を南北に通る「なにわ筋」によって東園と西園に分かれているが、終戦直後は公園ではなく、空襲の被害を受けた焼野原が広がっていた。ここに米軍が、飛行場を建設したという。
詳細を西区役所に問い合わせたところ、さすがに当時の事情を知る人物はいない。代わりに区役所に保管されていた「西区制100年のあゆみ」(1979年5月・西区制100周年記念事業実行委員会刊)を提供していただけた。
それによると、飛行場建設のための測量が始まったのは1946年とのこと。付近の住民が大阪市へ問い合わせたところ「飛行場の連絡場所ができる」との返答があったという。飛行場の連絡場所というのがどのような施設を指すのか、具体的な資料は見当たらない。だが、できあがった施設は飛行場そのものだった。
この場所が飛行場建設に選ばれた理由は、戦時中に受けた空襲であたり一面が焼け野原になっており、現在のあみだ池筋から四ツ橋筋の間には、焼け残った土蔵が7つあるだけという惨状だったらしい。米軍から見れば、取り壊す建物が少なく手頃だったというわけだ。
飛行場建設に際して、靭地区の住民らがおとなしく従ったわけではない。「飛行場反対期成同盟」という団体が結成され、反対運動を起こそうという動きはあったようだ。しかし、住民の間で「そんなことをしたら引っ張られるから、自重しよう」という慎重派と、「それでも構わない」という強硬派に意見が分かれ、まとまらないまま飛行場が完成した。
「西区制100年のあゆみ」の中に、建設工事の様子を見ていた人の証言で「トラクターでみるみるうちに飛行場をつくってしまった」という記述がある。トラクターとは、ブルドーザーやパワーショベルなどの建設機械のことをいっているのだろう。
■神様の怒りには米軍も抗えなかった!?
飛行場になったエリアの端に、戦禍を免れた楠の大樹があった。樹齢は800~900年といわれ、昔は御霊神社の境内であり、神様をお祭りしてある樹木だった。米軍は「航空機が発着する際の邪魔になるから」と、この楠を切るといい出した。靭地区の住民らが「登った人は必ず死ぬ」と説明したが、米軍は耳を貸さず、どうしても切るという。その2日後、木に登った作業員が転落。二の腕から切断する大ケガを負った。さすがの米軍も気味が悪くなったのだろう、楠を切ることを諦めたというエピソードが残っている。
1951年、「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)が締結され、連合国による占領政策が終わった。これを機に、飛行場になっている土地を返してもらおうという機運が盛り上がった。飛行場建設のために、米軍に奪われた土地は約2万坪におよぶという。
住民らは大阪市に対して返還を交渉したが、大阪市は「市として返還運動はできない」という。だが「靭地区の住民らがおやりになるなら、側面から援助しよう」ということになった。
当時の代議士など地域の有力者らが自費で何度も上京し、米軍と交渉した結果、1952年6月25日をもって正式に返還されたのだった。
さて、次の問題は、飛行場跡地をどう利用するのかということ。大阪市は「国家百年の大計だから、公園がいいと思う。協力してほしい」という。これに対し住民側からは、全市的な物産食品会館や住宅の建設を申し入れた。しかし結局、市の案が通って公園になって現在に至るのである。
なにわ筋に面した東園に設置されている「進駐軍飛行場跡地」の碑に刻まれた碑文によると、公園整備は失業対策事業として行われたようだ。
(まいどなニュース特約・平藤 清刀)