すべては道長追い落としのため 陰謀に走った藤原伊周・隆家兄弟 陰陽師、僧侶、宿曜師などうごめいた貴族社会の闇
女優・吉高由里子さんが主演で平安時代を生きた紫式部を演じるNHK大河ドラマ「光る君へ」。第20回では、藤原伊周(演・三浦翔平さん)が呪詛によって大宰府に左遷されるシーンがありました。七日関白といわれた藤原道兼(演・玉置玲央さん)が流行病で世を去り、一躍政界のトップに躍り出たのは藤原道長(演・柄本佑さん)でした。しかし、道長の兄、道隆(演・井浦新さん)の息子、伊周と隆家(演・竜星涼さん)もその地位を狙っていたのです。道長を追い落とそうとする呪い(呪詛)について、古記録からみていきましょう。
『百錬抄』長徳元(995)年8月10日条には、
右大臣を呪詛する陰陽師法師、高二位法師の家にあり。事の体内府の所為に似たり。
とあります。右大臣は道長を指します。内府は伊周のことです。高二位法師とは高階成忠で、伊周の母貴子(演・板谷由夏さん)の父です。伊周の祖父が陰陽師法師を使って道長を呪詛したのです。高階成忠は2年後に亡くなっており、この一件で罪を問われた記録は残っていません。
『小右記』(藤原実資〈演・秋山竜次さん〉の日記)の長徳2年3月28日条にも呪詛の記録があります。
内より召し有り。即ち参入す。蔵人頭行成、仰せて云はく、「東三条院の御悩、軽からず。赦令を行なふべし。…又、云はく、「或る人の呪詛」と云々。「人々、厭物を寝殿の板敷の下より掘り出す」と云々。
道長の姉、東三条院詮子の重い病を、ある人が「呪詛」だと言っています。そして、屋敷を探すと寝殿の板敷の下から「厭物」が掘り出されました。「厭物」は、壷に入れられた呪符(お札)であり、ドラマでは床下だけではなく、香炉や文箱からも呪符が発見され、東三条院詮子の自作自演のように描かれていました。
板敷の下での呪詛については、『政事要略』第七十、糺弾雑事十、蟲毒厭魅及巫覡等事に「古老云」として、10世紀初頭の太皇太后(藤原穏子)が難産のときの事例があります。占いをすると「厭者」がいるというので捜査したところ、板敷の下に白髪の老婆がおり折れた梓弓に歯を立てて呪詛を行っていたことが発覚します。この老婆を追いだすと同時に無事出産できたとあります。
このように病気や出産に際して、呪詛が行われ、その具体的な方法を知ることができるのも、この時代ならではのことです。
この呪詛事件の結果、内大臣伊周は大宰権帥、中納言隆家は出雲権守として左遷されます。その罪は、正月に花山法皇を射て危険な目にあわせたことと東三条院を呪詛したこととあります(『日本紀略』長徳2年4月24日条)。さらに、『小右記』長徳2年4月24日条には「花山法皇を射る事、女院を呪詛せる事、私に大元法を行なふ事等なり」と三つの罪状が列挙されています。
三つ目の「私に太元法を行なふ事」については、『日本紀略』同年4月1日条に、「法琳寺、内大臣太元法を修する由を申す」とあり、法琳寺の申告によるものでした。太元法とは、国家鎮護のため太元帥明王を本尊として行なった修法で、天皇の御衣を箱に入れ、緋の綱で結び、蔵人が封をして治部省でお祈りをし、結願の日にもとへ返上するという真言宗によって修される公的な祈祷でした。『覚禅抄』には、「これ帥内府(伊周)修行の作法、入道殿(道長)呪詛せしむと云々」とあり、道長を呪詛するものであったことがわかります。
さらに、この事件についての興味深い記録が禅定寺(京都府綴喜郡宇治田原町)に残されています。利原が師の平崇の事績をまとめた寛弘2(1005)年の「平崇上人行状記」です。著者の大法師利原がこの呪詛事件に関わっていたことをうかがわせる記事があります。『小右記』等の史料によると利原は僧侶であり、かつ宿曜師であったようです。宿曜師は、宿曜経をよりどころとする一種の占星術を操る僧侶で、伊周の運命を占った可能性が高いと思われます。(藤本孝一「藤原伊周呪詛事件について」『風俗』第19巻第1号)
このように平安貴族社会では、様々な呪詛が行なわれたことが記録に残されていますが、陰陽師、僧侶、宿曜師など多様な宗教者たちが関わっていたことも見逃せません。これからも政争の裏側でうごめく彼らが登場するかもしれません。
(園田学園女子大学学長・大江 篤)