アートの島の「都市伝説」を検証 夏の満月の夜、とあるカニが海辺で大量発生?
夏の満月の夜、とあるカニが犬島で大量発生するらしい-。岡山市東区沖に浮かぶ市内唯一の有人島に伝わるという「都市伝説」を7月初め、上司から聞かされた。事実なら「バズる(話題が広く拡散する)こと必至」の神秘的な光景だ。聞こえないふりをしたかった半面、この目で見たいという好奇心が上回った。満月までは残り3週間ほど。カメラとライトを手に、記者(30)は駆け出した。
見上げるとまん丸の月。穏やかな瀬戸内海の水面には「明かりの道」ができている。21日深夜の犬島。打ち寄せる波の音と潮風が蒸し暑さを少し和らげてくれる。その時だ。ライトの光を向けた岩場で小さな影が動いた。
「こ、これは…」
〽おーい中村君。さかのぼること3週間余り前。直属の部長(53)が昭和の流行歌とともに近づいてきた。「犬島でカニの大群が現れる夜があると聞いたことがある。この謎、探ってみないか」。かなりのむちゃぶりだが、少年のように目を輝かせ、両手指をチョキチョキさせる上司を前に記者(30)はつい応じてしまった。
これが岡山市東区沖にある犬島の「都市伝説」に挑むきっかけだった。ところが取材はいきなり壁にぶつかった。
「聞いたことがないですね」「知っている職員はここには誰もいません」。岡山市役所と東区役所、島内の市立犬島自然の家にも電話でアタックしたが、手がかりはない。光が差したのは、5年前まで島で暮らしていたという在本桂子さん(80)=同市東区=の一言だった。
「それはアカテガニじゃないかな。普段は林にすんでいるけど、夏になると子どもを産みに海に出てくるみたい」-。犬島の「生き字引」的存在として山陽新聞に何度も登場される方だけに、期待が一気に膨らむ。
アカテガニ-。ググると情報がわんさか出てきた。赤いはさみを持つ陸生のカニ。満月と新月の満潮時に、海岸に多く出現する。不思議な生態に興味が湧く。〈あとは現認するだけ〉。犬島行きの航路サイトを開いた。
宝伝港(岡山市)と犬島を結ぶ定期船が波を切る。21日午前、犬島に到着した。港から歩いてすぐ。中居厚平さん(84)の飼い犬リキに出合った。島に2匹しかいないという犬のうちの1匹。〈これはツキが回ってきた〉。そう思った矢先、残念な証言を聞いた。
島で生まれ育った中居さんだが、目当てのカニの所在を尋ねると「知らんなぁ」とぽつり。それでも「島民は夜にあまり出歩かんから知らんだけかも」との見方に、小さな希望をつないだ。
堤防、砂浜、岩場を歩き、草むらをかき分けたが、どこにも見当たらない。梅雨明けの岡山市。最高気温は35度超の猛暑日だった。持参したペットボトルはすぐ空になり、自動販売機で買い足した。2時間ほど歩き続け、くるぶしの辺りがじわりと痛み始めた。
昼過ぎ。島の名所の一つ「犬島精錬所美術館」のスタッフ尾崎麗子さん(47)から貴重な情報を得た。「そのカニなら木陰の小道でよく見るよ」。島に渡って初の目撃情報だ。
日頃から動植物を観察するのが趣味という尾崎さん。スマホで撮ったアカテガニを見せてくれた。教わったまま歩いて10分ほどの島北部に向かった。
「いた!」。ついに実物に出合えた。その名の通り手…というか、はさみが赤い。甲羅は幅が4センチほど。周辺にも数匹いるではないか。「夜の大集合」への期待に胸が躍る。
気付けば夕暮れ。宿泊先の犬島自然の家で夜を待つことにした。本番は満潮時刻の午後11時55分ごろだ。空には丸いお月さま。その引力で潮が満ち、アカテガニが動き出す-。想像ばかりが膨らみ、仮眠しようとしたがなかなか寝付けない。
午後9時半、ヘッドライトを装着し、カメラを手に出発した。目的地は林が近くにある浜辺だ。ごつごつした大小の岩の間にライトを当てた。「おおーっ!」。思わず叫んだ。
大集合とは言えないが、あっちにも、こっちにも。しかもよく見ると、おなかの辺りに黒い粒を抱えた個体がいる。後を追うと波打ち際に近づいていく。そして海水に触れた瞬間、体を上下にブルブルと震わせ、おなかの粒を放った。
粒の正体はカニの幼生。海中で成長して再び陸に戻る-と事前のにわか勉強で知っていた。その後も一帯を捜索した。だが、午前0時になると潮が引き始め、いつしかカニたちも姿を消した。
「かつてはアカテガニで真っ赤に染まる地域もあったそう」。倉敷市立自然史博物館の江田伸司学芸員(63)が古い文献で読んだことがあると教えてくれた。
江田学芸員によると全国各地で生息が確認される一方、護岸整備などの影響で個体数は徐々に減っているという。取材結果を伝えると「犬島はアカテガニにとって今なお生息しやすい貴重な場所の一つでしょう」との見解だった。
7月から秋口にかけ幼生の放出を繰り返すというアカテガニ。上司が以前聞いたという「大集合」には遭遇できなかったが、カニたちが暮らせる環境を犬島が持ち合わせていることは確認できた。
地域の隠れた魅力を知った喜びは、小さな興奮とともに今も記者の心を温めてくれている。
(まいどなニュース/山陽新聞)