「そんな人はいなかった」25歳で戦病死した大叔父の手がかりは ビルマ奥地で何があった…生きた証探す女性
太平洋戦争中、ビルマ(現ミャンマー)で多くの戦死者を出した「インパール作戦」から今年で80年。現地で戦病死したとされる大叔父の足跡を京都府の女性が14年間探している。亡くなったとされる場所に訪れても、新たな謎が生まれるなど手探りの調査が続くが、母との約束を胸に、戦禍で散った若き大叔父の生きた証を求めている。
澤井園子さん(55)。きっかけは母の思い出だった。祖父の弟にあたる神居達[かみいとおる]さんが出征の日、母はその膝の上で、戦時中は珍しかったおはぎを食べた。夢中で食べていると「全部食べて」と自らの分も差し出してくれた。「ありがとう」も「帰ってきてね」も言えなかったことを、戦後後悔していた母は現地での慰霊を願っていたが、2004年に急死。澤井さんは子育てが一段落した10年、母への親孝行として、大叔父の足跡をたどり始めた。
軍歴を記録した「兵籍簿」によると、大叔父は立命館大を中退し、1943年に召集された。京都などの部隊を中心とした第15師団の歩兵第60連隊第一大隊としてビルマへ。部隊から遠く離れた山岳地の病院でアメーバ赤痢とマラリアが原因で、25歳で戦病死した。
澤井さんは戦友会を訪ね、2011年2月に現地へ足を運んだ。大叔父が最期を迎えたとみられる建物や、慰霊碑も見つかった。涙が止まらなかった。肩の荷が下りたと思った。
帰国後、事態は急変する。大叔父が所属していたとされる大隊の生存者から「そんな人はいなかった」と告げられた。
別の復員兵は、下士官だった大叔父が遠方の病院に運ばれることは「ありえない」と断言した。その後の調査で、専門家から特務機関「光機関」に配属されていた可能性を指摘された。
光機関は、英国と敵対し独立を目指す「インド国民軍」の支援と、日本軍との連携を担った組織。大叔父がビルマに向かった同時期、立命館大を卒業していた年の近い光機関の兵士が、大学の後輩を加入させる任務に就いていた記録が見つかる。英語が堪能だった大叔父は出征当日、「通訳をする」と話していたことも判明した。
澤井さんは、新たに始めたブログ「ミャンマーに思いを寄せて」や、軍事専門誌に記事を掲載し、情報を募ってきた。復員兵らへの聞き取りや過去の記録を調べてきたが、記載されていたのは将校ら階級が高い人ばかりで、大叔父の名前は一度もなかった。特務機関にいたとしても、大叔父の名前が残っていないことに胸が詰まった。
話を聞いた復員兵の多くが鬼籍に入るなど、時の壁を感じるが、澤井さんは前を向く。「亡くなった命の重さは皆同じはず。母への親孝行を果たすために、私は諦めない」
■ インパール作戦
1944年3~7月、ビルマ(現ミャンマー)を占領した旧日本軍が、英領インド北東部インパールの攻略を目指した作戦。補給を軽視し、飢餓や感染症で3万人以上が死亡したとされる。
(まいどなニュース/京都新聞)