妻亡くし、中学3年の娘は生き埋め「気持ちを分かってあげられない罪深さ」、地震発生時に不在だった父親の後悔

団地の部屋から望む水面はラムネ色に輝いている。阪神・淡路大震災で妻を亡くした中島喜一さん(77)は長年過ごした神戸を離れ、2023年から淡路島で暮らす。「僕は地震の時、つぶれた家にいなかったし、家内の最期も見てないんです。だから、娘に背中を見せることができなかったのね」。そう言って、残された娘との30年を語り始めた。

■娘を追い詰めた言葉

1995年1月17日、中島さんは地震発生前の午前5時に仕事に出掛けていた。神戸市灘区桜ケ丘町の自宅では妻の彰子さん=当時(47)=を挟むように2人の娘が寝ていた。

父不在の中、5時46分、地震で2階建てアパートは全壊する。高校3年の長女は自力で外へ。中学3年の次女は生き埋めになり、7時間後に神戸大学のアメリカンフットボール部の部員たちに助け出された。妻の彰子さんは亡くなり、苦しそうな顔で両手を上げていた。まるで落ちてくる天井を支えるかのように。「娘たちを必死に守ろうとしたんでしょう」

暗い場所や狭いところが怖いー。母の死を隣で感じた次女は震災後、極度におびえるようになった。トイレは隙間を空け、電気を付けて寝る。昼と夜が逆転し、進学校だった高校にも遅刻するようになった。

仕方ない、と最初は思った。時間がたつにつれて、中島さんの焦りは募った。「地震に負けずに生きてほしい」と厳しく諭すも娘にその言葉は届かない。けんかも増えた。ある日、テレビで学生が震災募金を呼びかけるニュースを見て、口走ってしまった。「見てみ、あの子らは偉いなぁ」。親子の会話はますます途絶えた。

自身の言葉が娘を追い詰めていたと気付いたのは、次女が大学で下宿を始めた頃だ。娘が心の整理をしようと書いていたメモを自宅で見つけた。そこには「私が死んだらよかった」とあった。

「地震の時に一緒にいなかった僕が、娘の気持ちになるのは無理なんです。分かってあげられない罪深さを感じました」。したいことをしたらいいと、気持ちの回復を待った。心的外傷性ストレス障害(PTSD)も勉強した。紆余曲折したが、次女は今、奈良県で鍼灸師として自立している。

■30年前、命の恩人になった大学生

働き盛りだった中島さんにも30年の月日が流れた。72歳で心筋梗塞を患い、終活で淡路島へ。それでも心残りがあった。次女を生き埋めから救ってくれた大学生にお礼を言えなかったことだ。

妻を六甲病院に運んで自宅に戻った時には、周辺には誰もいなかった。彼らは神戸大生らしいが名前も分からない。大学に相談したが、見つけることはできなかった。2004年には三宮・東遊園地であった「1・17のつどいに参加した。遺族代表としてあいさつしながら、どこかで暮らす学生たちに「元気にやっています」と伝えたかった。

記者が神戸大アメフト部「RAVENS」の救助活動を聞いたのは、2023年12月。部員が住んでいた神戸市灘区桜ケ丘町の近隣で取材を進めると、中島さんにたどり着いた。取材のことを話すと、電話の向こうで中島さんはかすれ声で喜んでくれた。「奇跡みたいです」と。

中島さんは急いで次女にLINEした。「ビッグニュースがある」。すると、打ち返しがあった。「再婚するの?」。最近はそんなふうに冗談も交わせる関係になってきた。きちんと伝えたら、娘は驚きを隠さなかった。「私も探したけど、分からなかったのに…」

  ◇

阪神・淡路大震災で救助活動を尽くした神戸大アメフト部と救出された家族。それぞれの思いを連載でお伝えします。

(まいどなニュース・山脇 未菜美)

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