昭和49年生まれの氷河期世代…51歳の「若手」落語家・露の新幸 小さな寄席小屋を閉める春

大阪市北区天満に、小さな寄席小屋があります。古いビルの3階にあるその寄席小屋は、その名も「猫も杓子も」。レトロな扉を開くと見えてくるのは、正面の小さな高座です。その片脇は楽屋でしょうか、天井からカーテンがかかっています。客席はたったの27席。

そこを綺麗に掃き清めている中年男性がいます。落語家の露の新幸さん(51)です。いい年のオジサンではあるものの、演芸界ではまだ入門12年目の「若手」なんですよ。

■ボブ・ディランのような師匠に恋をして入門

新幸さんが師匠である露の新治師匠(75)に入門を許されたのは、39歳のころ。もちろん別の仕事をしていましたし、家族もいました。それなのに、熱心に頭を下げ続けるものですから、新治師匠は弟子にすることを決めました。

「色々考えてのことやろう」

新治師匠はそう思っていたようですが、実のところは違います。新幸さんは何も考えていない。計画も打算もなく、ただ師匠のそばで落語がしたかっただけ。若い時分、初めて聴いたボブ・ディランのような衝撃を受けたからです。

「あのころ、青臭い気持ちが充満しとったんですわ」

笑いながら入門時のことを語る新幸さん。当時、ライブバーの経営と音楽専門学校の講師の二足の草鞋で生活していました。ライブバーでは何の技術もマスターしていないのに「マスター」と持ち上げられ、専門学校では難しい音楽理論など知らないのに「先生」と慕われる日々。

これに違和感を抱いていた矢先、新治師匠の落語とであったといいます。

■「ふざけんな!」と叫んだあの夜

この違和感を生み出したのは、新幸さんのギターの師匠です。毎晩、ライブバーに来てはチビチビ飲みながら、新幸さんを激励(?)します。例えば、歌詞を書くなら『方丈記』ぐらい読めとか、星の名前を覚えろとか。「もっと出来るやろ」と要求が多い。

最初は受け流していた新幸さんも、あまりに言われ続けるもんですから、ある時爆発。経営者という立場を忘れて、ギターを片手に、シンガーソングライターとして自分の店のステージに立ち始めました。

最初は、お客さんからはそっぽを向かれていましたが、場数をこなしていくうちに手ごたえを感じるように。

「俺は俺の音楽をやればええんや」

そんな思いで、ギターをかき鳴らします。するとある日、一番前で背中を見せて聴いていたお客さんが言ったんです。

「お前、すごいな。ファンになるわ」

これを聞いた新幸さんは激怒しました。

「ふざけんな!今日、小マシに見えただけでファンになられてたまるか!」

それまでの人生で何度も挫折してきた経験が、そう言わせました。

■梯子を外された世代、精神安定剤は履歴書を書くこと

新幸さんは昭和49年生まれの就職氷河期真っ只中。高校卒業後は就職できるはずが梯子を外され、やむなく専門学校へ進学。音楽の裏方についての勉強をしましたが、卒業後に就職先があるわけでもありません。友人とバンドを組みましたが、もちろん音楽の仕事ももらえるわけもなく…。精神を安定させるために、何枚も何枚も履歴書を書く毎日。

ようやく楽器店のアルバイトが決まったものの、ひき逃げに遭い全治6カ月の大怪我を負います。動けない体になり、心配なのは生活のこと。病院のベッドの上でも、アルバイト情報誌を血眼になって見続けました。

その中で面白そうな求人広告を発見します。それはある劇団のもの。「給料出ません、とてもしんどいです」とあった。新幸さんは話のネタになるかと思い、軽い気持ちで応募しました。裏方でなく、表に出たい気持ちもありました。

なぜか採用され事務所に行くと、その場で頭を丸刈りに。そして、飛び込み営業を命じられます。「お芝居を見たい気持ちにさせてこい」と。給料は求人広告にあった通り、出ませんでした。

連日、原付に乗って営業に回ります。頭を下げ、言葉を尽くし、劇団を売り込んでいく。朝から晩まで。

■心に広がる白い空間と一滴の墨

そんな生活が半年続いたある日、いつものように原付に乗り営業に行こうとした時、守口市の交差点で急に体が動かなくなりました。信号は何度も青になっているのに、後ろからクラクションを鳴らされているのに。

動けなかった。すべてが遠い。

ようやく携帯電話を取り出して見ると、着信履歴が山のようになっていました。どれだけの時間、立ち止まっていたのか。新幸さんはそれらの着信は全部無視し、友人に連絡を。彼はすぐ来てくれ、新幸さんは助けられました。

その後、劇団を辞めるも続けるも連絡をせず過ごしました。何もしない。やったことは、須磨の海岸まで行き、カモメに食パンをあげたことぐらい。

心の中が真っ白。悔しさも焦りも浮かんでこない。ただ、何もない。けれど、真っ白な和紙に一滴の墨を落としたように、じわりと何かが滲み始めていました。

その「何か」の正体は、はっきりしません。ただ、何もしないままでいることに、少しだけ居心地が悪くなっていきました。そして、心の中にポッと浮かんだ言葉。

「メジャーデビューする」

■27歳の分岐点、進むか止まるか

そう決めたなら、居ても立っても居られない。親しい音楽仲間に声をかけ、彼にデモテープを作成してもらいました。そのデモテープを毎月30社の「スタジオ」と名の付く会社に送る。営業ノウハウは劇団で蓄積しましたから、作業はどんどん進みます。

遂に3社から、連絡がきました。デモテープは送っていないはずなのに、人づてに話を聞いたのだそう。新幸さんは相方と手を取り合って喜びます。この時、新幸さんは27歳。専門学校を卒業して、7年の月日が流れていました。

半年後にはメジャーデビュー決定。2人組のユニット名は「フリーク」。音楽事務所からは、早く東京に来て活動を始めてほしいと言われていました。相方は早々に東京へ住まいを移します。

しかし、新幸さんは大阪から動けない。当時の恋人が妊娠、しかも切迫流産の恐れがあったのです。ここで一人東京に行ったなら、二度と彼女と子どもに顔向けができなくなる。それに上京すれば生活は不安定になり、二人を支えることはできない。

新幸さんは大阪に残る決意をしました。相方には、「解散」と告げます。

■音楽を止めると決めたものの

解散後、フリークの最初で最後のCDが発売。CDショップに並べられた自分のCDを眺めつつ、サザンオールスターズや椎名林檎のCDを視聴。改めて売れている人の音楽はすごいと実感しました。

「俺の音楽は、メジャーデビューが山の頂やったんやな」

不思議と悔しいという気持ちは生まれませんでした。今までで一番晴れやかな気持ち。これで腹が決まりました。音楽を止めると。

それなのに、音楽を止めたはずが電話は鳴りやむことを知りません。こんな曲を書いてよ、この曲にベースを入れて欲しい、アレンジしたらどうなるか等々。とうとう、29歳の時には音楽専門学校の講師の仕事まで任されるように。

講師をしていると、今度は音楽を発表する場が少ないと気付きます。それでライブバーの経営にも乗り出しました。そのライブバーで自らも演奏するようになり、表現者としての楽しさを再確認。

39歳の時に、落語界のボブ・ディランこと露の新治師匠と出会います。

入門後も、ライブバー経営と専門学校講師は続けていましたが、さすがに無理があり専門学校を退職。ライブバーもコロナ禍の時に畳みました。

■春の別れ

落語一本に絞ったのかと思いきや、落語家仲間の桂りょうばさんや桂九ノ一さんとバンドを組み、今も音楽を続けています。中でも、りょうばさんとは「てれすこボーイズ」という音曲漫才のコンビとなり、繁昌亭などへ出演するようになりました。

そんな新幸さんが自分の落語を発表する場として、2023年8月大阪市北区天満に生み出したのが「猫も杓子も」です。音楽も大切だけど、落語は何より面白い。喜怒哀楽、すべてを内包しているから。毎週水曜日は「朝活らくご」と称し、必ず自分が高座に上がりました。

その「猫も杓子も」が今年3月末に幕を閉じます。ビルの契約更新がなされませんでした。せっかく作った自分の寄席小屋なのに、梯子を外された状態。

それでも新幸さんはいつも通り、ほうきを手に取り「猫も杓子も」を掃き清めます。3月の終わりまであと少し。今日も朝日が、27席の小さな寄席小屋を照らします。

(まいどなニュース特約・ふじかわ 陽子)

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