桧山 笑顔でお別れ「本当に幸せ者」
「阪神4‐3巨人」(5日、甲子園)
今季限りでユニホームを脱ぐ阪神・桧山進次郎外野手(44)の引退試合が、本拠地最終戦で行われた。今季甲子園最多となる4万7046人が見守る中、桧山は「5番・右翼」でスタメン出場。3打数無安打に終わったが、試合は上本が八回に値千金の同点3ランを放ち逆転勝ちした。桧山はセレモニーで「本当に僕は幸せ者でした」と笑顔であいさつした。
仲間が作る輪にゆっくりと歩いた。温かい手に身を任せ、夜空に8度舞った。「本当に僕は幸せ者でした。22年間、ありがとうございました」。ありがとう、タイガース。永遠の感謝と共に、桧山が節目の夜を迎えた。
プロ初出場と初安打を記録した思い出の甲子園での巨人戦。1年ぶりのスタメンで快音こそ響かなかったが、守備では軽快な動きも披露。大歓声と共に笑顔を見せた。
「小さいころから兄の背中を追い続け、今まで野球をやってこられたのも丈夫な体に産んでくれた両親のおかげです。どんな時も温かく接してくれた家族。紗里(妻)、周成(長男)、宗秀(次男)、ありがとう」
虎一筋の22年間。「代打・桧山がコールされた時、地響きが起こるような温かい声援をくださった。どれだけ勇気をもらったことか。一生忘れません」。ファンが勇気をくれた。グラウンドを離れても支えがあった。
9月2日、引退の報告に京都の実家へ向かった。「ほんま、ようがんばったな…」。母・桂子さんは涙ぐんでいた。そのまま京都市内にある父・隆一郎さんの墓前に手を合わせた。05年、75歳での他界後も背中を押してもらっていた。
「何かあったら墓参りをして手を合わせて。自分が悩んでいたりしたら『何かいいアイデアがあったら教えてね』って」
離れても支えてくれる気がした。空を見上げれば表情が目に浮かぶ。幼い時から一緒に阪神を応援し、野球を教わったかけがえのない存在。「左で打ったらどうや?」。右から左に打ち方を変えた小学4年のころ。父の言葉が夢の始まりだった。
「目が死んでる」
「打つ、打ったると、気合見せてやれ」
阪神入団後、テレビ観戦の父から毎日のように電話で叱られた。最後に怒られたのは98年。「何のためにベンツ買ったんや。悔しかったら今すぐ練習しに帰ってこい」。今も忘れない。同じ外野の浜中が活躍した試合後だった。
「次の年の方が試合に出てないけど、『がんばれよ』ばっかりで、そこから一度もけなされたり、怒られたりしたことはないよ」
順風満帆、ではない。2軍での日々、ベンチスタートの悔しさ、チームの低迷、代打の難しさ…。辛い時は父の言葉を頼った。「やっぱり気持ちが大事やしそれは教わったから」。涙の別れは8年前。今も胸の中で父は生きる。共に夢を追った日々が感動を呼び、「代打の神様」と呼ばれた。
「まだ日本一の称号を手に入れてません。その忘れ物をいつか必ず取りにきます。その時はまた、ファンのみなさん、タイガース球団のみなさん、一緒に戦いましょう」
浮き沈みをくぐり抜けた姿がファンを魅了した。セレモニー後、スタンドと何度も万歳を繰り返した。サヨナラも涙も、まだ先だ。まだ続く日本一を目指す旅。情熱の彼方(かなた)に、桧山が最後の夢を見る。