金本監督に関西両球団の不思議な因縁…

 「交流戦、阪神1-5オリックス」(15日、甲子園球場)

 25年前の夏、23歳金本知憲の潜在能力を評価する球団はセ・パで2つあった。セは広島。そしてパはオリックスだった。東北福祉大時代、野球部監督の伊藤義博から希望球団を聞かれ、金本はこう答えている。「ドラゴンズかスワローズでプレーしたい気持ちがあります」。逆指名のない時代、伊藤は中日、ヤクルトのスカウトから指名方針を聞いていた。「ウチは金本くんは…」。

 意中の球団から「興味がない」と言われるほど、ショックなことはない。その年、金本が希望する中日が1位指名したのは東北福祉大の同僚・斎藤隆。2球団競合の末、斎藤は指名権を獲得した大洋(現DeNA)に入団することになるが、ドラフト指名を待つ学内の応接室で金本は「隆のことがうらやましかった」と、当時の胸中を語ったことがある。

 1991年の全日本大学選手権で福祉大は悲願の初優勝。関大との決勝戦で4年の金本は決勝タイムリーを放つ活躍を見せたが、プロ球団からの評価が上昇することはなかった。それでも…今だから明かせることだが、金本はカープからの指名を「こないで」と心の中で手を合わせていたという。「生まれ故郷の広島で恥をかきたくなかったから…」。

 なんと、ネガティブな発想だろう。「超変革」をうたう今の金本のイメージでは考えられない。そう思われるかもしれない。だが実は、野球人・金本の歴史は常にマイナスからスタートしていたように、僕は思う。

 カープ時代の若かりしころ、20代半ばの金本はスタメン起用されることを嫌がった。なぜか?打てなかったら怒られる。ミスしたらどやされる。だったら、ベンチを温めていたほうがいい。本気でそう思っていた。当時、監督・三村敏之にこれでもかと嫌みを言われるたび、余計にネガティブになっていったと、本人から聞いた。

 ただ、この「失敗したらどうしよう」という恐怖心こそが「鉄人」と呼ばれるまで金本を成長させてきた。だからこそ今、若手の気持ちを自らの原点に置き換えてみる。「選手は失敗したときにそれをどう捉え、どんなふうにはい上がったくるのだろう」と。2軍監督の掛布雅之もかつて言っていた。「怖さを知らない選手は一流にはなれないよ」-。

 25年前、もしオリックスからドラフト指名されていたら、金本はこの夜、甲子園の三塁側ベンチで頭をひねっていたかもしれない。

 「オリックスは結局、俺を指名しなくて大正解だったよな。その年、俺と同じドラフト4位で鈴木一朗を獲ったんだから」。金本らしいマイナスからの発言。これも関西両球団の不思議な因縁…なのかもしれない。

=敬称略=(阪神担当キャップ・吉田 風)

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