「カネ、大丈夫か」 山本一義さんの遺言
前日休みで田舎に帰省していると、広島担当のキャップから連絡が入った。「山本一義さんが、亡くなられました」。すぐに金本知憲の携帯を鳴らした。
「えっ……」
金本の恩師には2人の山本がいる。ひとりはミスター赤ヘル、山本浩二。もうひとりが三村敏之の広島監督時代、チーフコーチを務めた山本一義。金本が12年の現役引退会見で、三村とともに「僕の恩人」と語った、打撃の一番の師匠である。
「厳しい人だったよ」。一義さんの思い出を語るとき、金本はうれしそうに話す。ときに鉄拳でバットも出てきたという。制裁の類いではない。愛情、期待の裏返しと分かるから、金本は慕った。いつも三村の叱責(しっせき)が辛辣(しんらつ)だったので余計に、山本から諭される言葉が心に染みた。
「ワシが責任をとるけぇ、カネを使ってやってくれんか」
1995年だから、金本がプロ4年目のシーズンの春。山本が10歳下の将、三村に頭を下げた。からっきし左投手を打てない。そんなレッテルを貼られていた金本は山本から、こう告げられた。
「お前、左ピッチャーからインサイドを攻められても、絶対にビクッとするなよ!」
対左腕の内角攻めで体がのけぞるのは左打者の反射でもある。それでも金本は山本の言いつけを守り、頭部に投げられようが、顔付近に投げられようが、「ぶつけられてもいい」と右足を踏み込んだ。山本はキャンプ中の紅白戦で金本が左投手と当たるように組ませ、意図的にアピールの機会を増やしていた。
「あいつは左ピッチャーに対して分は悪くない。○打数○安打。打っとるじゃろ」
山本が三村を説得し、金本の出場機会は増えていった。指揮官から突き放される日々のなか「一義さんだけはずっとフォローしてくれていた」と感謝を忘れない。金本が初めてベストナインを受賞したのはこの年。進退をかけて起用を進言してくれた恩人に報いた。
山本一義はコーチ退任後、評論家になり、記者席で筆を執った。マツダスタジアムの広島対阪神戦で僕があいさつに行くといつも、「スタンドへ降りよう」と試合開始前に2人で記者席を出た。そして一義さんのお気に入り、真っ赤なカップのアイスクリームをほおばりながら、野球を教えてくれるのだ。
金本がまだ現役のとき「あいつのいいときは…」と、立ち上がって一記者に打撃の手本を示す。金本の評論家時代は「あいつ、まだフラフラしとるんか。コーチせぇ、と言うとけよ」と…。一義さんに会うと「カネ、大丈夫か」と、まな弟子を思いやっていた。
マツダの観客席でカップアイスを食べる日は、もう来ない。一義さん、安らかに…。
=敬称略=
(阪神担当キャップ・吉田 風)