安芸で思う…24歳 黒田博樹 2歳男児との約束
少し、心が安芸から離れた。黒田博樹の引退セレモニーを見て鼻がツンとなった。20年前の、まだ自信なさげだった背番号15の残像が浮かんで、思わずこみあげてしまった。
黒田のルーキーイヤーに転勤で広島に赴任し、若かりしころの彼を追った。同年はドラフト1位の沢崎俊和(現広島2軍投手コーチ)が12勝を挙げ新人王に輝き、ドラ2の右腕は完全に脇役。6勝9敗で1年目を終え、大卒新人2人の明暗ははっきりと分かれた。
カープは翌97年のドラフトで黒田の専修大の1年先輩、プリンスホテルの小林幹英(現広島1軍投手コーチ)を4位で指名。小林は1年目から抑えとして18セーブを挙げるなど活躍し、2年目わずか1勝に終わった黒田の存在は同門で比較されても、かすんでいた。
そんな彼が2年目を終えた11月、日南秋季キャンプの1シーンを思い出す。黒田は天福球場の山あいを高橋英樹(現広島打撃投手)とともにトレーニングで駆けていた。インターバルで坂路ダッシュを繰り返していると、よちよち歩きの男の子が…。年齢を聞けば「2ちゃい」という。お母さんは地元の人だけど、カープのことはよく知らない。黒田は男の子の赤いほっぺをさすりながら言った。
「おにいちゃん頑張るわ。君が大人になるころには、ちょっとは有名になっておくからな」
冗談っぽく、笑いながら、そして記念撮影。そばで聞いてほほ笑ましかったので、あのときの言葉はよく覚えている。か細い24歳が将来ヤンキースで活躍し、日米200勝を挙げるなんて、当時カープの関係者は誰も想像できなかった。確かに執念や向上心はほとばしっていた。ただ、金本知憲や新井貴浩らカープの選手はほとんどそうだったから、黒田だけが特別だとは感じなかった。
20代の黒田を取材して活躍を裏付けるものをひとつ挙げられたとすれば、それは彼の「礼」だったのかもしれない。プロ3年目で結果も出ていないのだから腰は低い。でも、だからというわけじゃなく、こちらが恐縮するほど、いつどんなときも礼儀正しかった。目を見てあいさつをし、相手に言葉足らずなことがあっても揚げ足をとらず、その立場を敬う。小、中、高、大学と野球を通じて礼儀を学んできたのだから、プロでできるのは当たり前?残念ながらそうではない。多くのプロ野球選手と接してきたが、若くしてこれをできるのは実は希少だ。安芸で泥にまみれる若虎に、ついつい黒田の残像を重ねてみる。
カープファンは黒田が「大投手だから好き」なのではない。入団時から変わらない「礼」が伝わるから、彼が泣けばファンも泣く。日南でほっぺをさすられたあの子はもう成人。約束通り「ちょっとは有名」になった黒田との写真…今、宝物になっているに違いない。=敬称略=(阪神担当キャップ・吉田 風)