【私と甲子園】平田勝男チーフ兼守備走塁コーチ 初戦で骨折も「サッシー」とともに4強進出
平田コーチは松浦市出身。海星がある長崎市へは、電車で約3時間半もかかる。それでも60年代から長崎の高校野球の中心だった海星に憧れ、強豪の門を叩いた。
1学年上にはサッシーと呼ばれた怪物右腕・酒井がいた。平田コーチが「直球はホップして、相手のバットが当たらないんだもん。大学へ行っても、酒井さんの方が速かったなあ」と振り返るほどの剛腕。76年夏の長崎大会3回戦・島原中央戦で、16者連続三振を記録する右腕を大黒柱とし、野手は守り勝つ野球を磨いた。
当時の井口一彦監督の指導は厳しかった。阪神では、華麗な動きで魅了した平田コーチの守備の原点はここにある。「素手でボール回しをして、ノックも受けた。監督は『素手の方がボールをよく見るやろう』って。フットワークよく、いいバウンドに入らないと捕れないし、ああいう練習はルーツだよね」。2番・遊撃の座をつかむと、2年だった76年夏は初めての甲子園へ。聖地では想像以上の興奮が待っていた。開会式で満員のスタンドに震え、圧倒された。
「入場行進で『長崎代表、海星高校』って呼ばれた時、5万人ぐらいの歓声に包まれるような感じだった。あれはすごかったなあ」
だが、張り切る少年をアクシデントが襲う。1回戦・徳島商の守備。二盗で二塁ベースへ入った際、捕手の送球が右手親指を直撃した。大きく腫れ上がり、医務室へ直行。のちに骨折が判明するほどの負傷だったが、処置を受けるとフル出場。2回戦・福井戦は4打数4安打を記録した。
「田舎でテレビ放送をしてくれていたから映りたくてさあ。マウンドへ行ったり、映るように意識してたよ(笑)」と冗談を交えて振り返ったが、当時の福井戦の後は「酒井さんに迷惑をかけなくて済みました」と話している。サッシーの後ろを守る2年生は必死だった。計5試合で無失策。長崎県勢にとって今も最高成績となっている4強に貢献した。
準決勝でPL学園に敗れて決勝進出は逃したが、長崎に帰ると大きな喜びが待っていた。「地元は盛り上がってくれたし、田舎に帰った時は、親父とお袋が喜んでくれてさあ。故郷に錦を飾るってこういうことなんだ、って思ったね」。77年のセンバツでは選手宣誓も経験。支えてくれる人のために努力し、感謝する。甲子園での経験は、野球人としての原点でもあった。