【私と甲子園】大魔神と競い背番号3で踏んだ最後の夏のマウンド
高校野球を彩ってきた元球児の阪神関係者が、当時の思い出を振り返る「私と甲子園」。第9回は東北(宮城)出身で、現在は阪神のスカウトを務める葛西稔さん(51)です。現役時代に「遠山-葛西-遠山」の継投で虎党からも人気を博したリリーバーは高校時代、後に球界屈指の守護神となる同級生とともにプレー。3年夏に出場した甲子園の記憶が印象深いと語ってくれました。
阪神では貴重なアンダースローとして何度も甲子園のマウンドに立った葛西さんも、高校時代は聖地に憧れを抱く球児だった。振り返ると、つらい思い出が真っ先に浮かんでくる。地元・青森から東北へ野球留学。名将・竹田利秋監督(77)=現国学院大総監督=のもとで鍛えられた。
3年間、余裕など全くなかった。昼休みが過ぎて練習の時間が近づくと、プレッシャーから腹痛を起こすこともしばしば。「練習も厳しい、監督も厳しい、寮の生活も厳しい。たぶん僕が一番怒られたと思いますよ」
同級生の中で最も目立つ存在だったのは、佐々木主浩投手(元横浜)だ。東北福祉大を経てプロ入り後、“ハマの大魔神”として君臨し、海を渡ってメジャーでも活躍した大投手。自身が故障がちで体力にも自信がなかったことから、「体力と精神力は強かった」と驚かされた。
「厳しい時期をともに過ごした」と同じ投手としてブルペンでは並んで投げるなど競い合った。しかし、最後まで佐々木から背番号1を勝ち取ることはできず。「1桁の背番号がほしい」と内野手にも挑戦し、3年夏には背番号「3」で憧れの地を踏んだ。
必死で勝ち取った舞台で躍動した。1985年夏の甲子園2回戦・佐賀商では「6番・一塁」として5打数4安打3打点。さらには九回途中に佐々木の後を受け、高校時代唯一となる甲子園のマウンドに立った。投げ方はまだスリークオーター。わずか打者2人ながら無失点で試合を締めた。
記念すべき登板について問われると「足がつって痛かった思い出しか…。何とか抑えたからよかったけどね」と笑った。痛みも相まってか、今でも記憶に残っている試合だ。
高校3年間があったからこそ成長できたと感じている。「高校の厳しさがあったんで、大学でも1人で追い込んでっていうことはできた」。現在はスカウトの立場で球児を見つめる。「頑張って苦しい思いをして出てきたんだろうなと思うと、やっぱり感動しますね」。甲子園の入場行進を眺めていると、自身の高校時代とつい重ねてしまう。
◆葛西 稔(かさい・みのる)1967年5月5日生まれ、51歳。青森県弘前市出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。東北高では内野手兼投手として、3年春夏の甲子園で8強。法大を経て89年度ドラフト1位で阪神入団。主に救援投手として02年は投手コーチも兼任し、同年現役引退。通算331試合36勝40敗29セーブ、防御率3・59。2003年から投手コーチを務め、09年からスカウトに転身。