【私と甲子園】沖縄・安仁屋宗八さん 人生の転機となった沖縄勢初の自力切符
高校野球を彩ってきた元球児の阪神関係者が、高校時代を振り返る「私と甲子園」。今回は特別版です。沖縄(現沖縄尚学)OBでデイリースポーツ評論家・安仁屋宗八さん(73)は、62年夏に沖縄勢として、自力で初めての甲子園出場を果たしました。沖縄大会が、22日に全国のトップを切って開幕したことを記念し、沖縄のレジェンドが高校時代を振り返ってくれました。
56年前。米国統治下にあった沖縄が沸いた。安仁屋さんの快投が、沖縄球児の夢を阻んでいた厚い壁を破った。
「あの夏がなければ、今の自分はいない。甲子園に行ったことで社会人野球、プロ野球にも進めた。高校では周りにかわいがってもらったし、これは自分の財産。世界一、幸せな男やと思うよ」。のちに初の沖縄出身のプロ野球選手となる右腕にとって、高校3年夏は人生の転機だった。
当時の沖縄勢は南九州大会に出場し、沖縄予選、宮崎勢との第2次予選に勝たなければ、甲子園に出場できなかった。
前年までは宮崎勢に歯が立たなかった。安仁屋さんは高3の62年夏にエースとして、沖縄予選突破へ導いたが、甲子園はまだ遠かった。「船に乗って生まれて初めての本土へ行ったし、楽しもうと言っていた。その開き直りがよかったかな」。ノビノビ野球で大淀を撃破。沖縄勢として初めて自力で甲子園への切符をつかんだ(※)。
吉報に沖縄中が沸いた。1日遅れで沖縄に届く新聞は、飛ぶように売れた。大会前には新聞社によって国際電話で親と話す企画まで行われた。
広陵(広島)との1回戦は、甲子園が“沖縄一色”。指笛や太鼓が響き、当時の広陵の選手が「足がすくんだ」と語る異様なムードだった。
だが、この雰囲気に野手がのまれ、ノビノビ野球が影を潜めた。安仁屋さんが「内野は1歩目が出なくてほとんどヒットになった」と苦笑いで振り返る。
無理もなかった。沖縄は60年に奥武山球場(現沖縄セルラースタジアム那覇)が完成するまで、まともな球場はなかった。雰囲気に慣れた六回に4点差を追い付いたが、終盤に力尽きた。
敗戦後、甲子園の土は持ち帰れなかった。沖縄は米国統治下で、植物防疫法で「外国の土」として持ち込みを禁止されていたためだ。実際に58年の首里は、那覇港で甲子園の土を破棄されている。
だが、安仁屋さんは沖縄に戻ると、スパイクの歯に少しだけ黒土が付いていることに気づいた。その土は思いを込めて母校のマウンドにまいた。
「後輩たち、頑張れよ」。願いは現実となる。沖縄勢はその後、春夏計4度の甲子園制覇。夏の甲子園の勝率・585は九州勢1位。先駆者が切り開いた道を進む後輩たちが、沖縄を全国屈指の激戦区にまで押し上げている。
◆安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ、73歳。沖縄県出身。右投げ右打ち。沖縄から琉球煙草を経て、64年に広島へ入団。68年に23勝を挙げた。阪神移籍1年目の75年に最優秀防御率を獲得。80年に広島へ復帰し、81年に現役引退。プロ通算655試合119勝124敗22セーブ、防御率3・08。引退後は広島投手コーチなどを歴任し、現在はデイリースポーツ評論家。