【私と甲子園】若狭OB川藤幸三さん 甲子園へもう一度、春夏連続出場が心の支えに
高校野球を彩ってきた元球児の阪神関係者が、高校時代を振り返る「私と甲子園」。最終回は若狭OB・川藤幸三さん(69)です。決してエリートではなかったが、厳しい練習に耐え、高校3年の時に甲子園に春夏連続出場を達成。甲子園で勝つことはできなかったが、甲子園出場がその後の人生を支えるものとなりました。
偉大な兄の背中を追いかけていた。川藤さんの2つ上の兄・龍之輔さんは若狭で1年からベンチ入りし、甲子園出場。その後エースとして活躍し東京オリオンズに指名された。
「兄貴は(若狭の)監督が中3の時にぜひ来てくれと勧誘されたんや。それをワシは中学1年の時に見ていて、さすがやのぉと。ワシも3年になった頃にはこういうふうに来させたろ。そう思っていたら現実に来たんや」
しかし勧誘に来たのは川藤さんではなかった。「エースと4番の2人を獲りに来たんや」。だが運命なのか、兄の存在が人生を左右する。「ワシなんか獲りにきてなかったんだが、ワシの名前を見て『お前、龍之輔の弟か。ついでのお前も来い』と言われて」
当時強豪の若狭には1年生が100人ほど入部。多くの猛者がいる中「大将になってこいつらを甲子園に連れて行く」と誓いを立てるも、高校生活は想像を絶していた。
「練習は厳しいなんてもんじゃない。軍隊や。練習試合で内角に投げられてビクッとしたら『タイム』となって『貴様、ボールが怖いのか』でバカーン。だから100人入っても夏場までで半分、1年終わったら30人、そこから最後は13人や」
甲子園を意識したのは2年秋の新チームから。それまで捕手だったが「肩が強いから」という理由でエースに指名され、4番も任された。「(球種は)真っすぐしか知らんかった。球は速いが、球がどこにいくのか分からなかった」。それでも秋の県大会を勝ち上がり北信越大会で準優勝。翌春のセンバツ出場を手にした。
迎えた1967年のセンバツ。1回戦で報徳学園と対戦したが、右肩付近に打球が直撃し途中降板。1-9で敗れた。しかも負傷箇所が三角筋断裂の重症であることが判明し「野球はできない」と言われたという。だが野球部OBの先輩から東京の医者を紹介され、治療。夏の県大会1カ月前にボールを持っていいと許可された。
最後の夏。エースは1年下の乗替(元西鉄)に譲り「4番・左翼」として引っ張り甲子園に出場した。だが1回戦で島野(元阪急)を擁する武相に0-3で2安打完封負け。「ワシはヒット1本や。甲子園に出てくる投手は半端なかった」と懐かしそうに振り返る。
勝つことはできなかったが入学時に目標に掲げた甲子園出場を達成したことは今でも人生の支えだ。「福井は学校数が少なかったが、勝って出るのは達成感がある。目標を達成するというのは生半可なものではない。プロでも挫折は誰でもあるが、もう一度上がろうというのがなければ勝ち上がれない」。阪神で長年活躍できたのも甲子園出場があったからだった。
◆川藤 幸三(かわとう・こうぞう)1949年7月5日生まれ、69歳。福井県出身。現役時代は右投げ右打ちの外野手。若狭から67年度ドラフト9位で阪神入団。86年現役引退。通算成績は771試合211安打16本塁打108打点、打率・236。90・91年は阪神外野守備コーチ、総合コーチ。現在は野球評論家で阪神OB会長も務める。