阪神のレジェンド助っ投・バッキー氏死去 日米で通算100勝、外国人初の沢村賞
虎のレジェンド助っ人が、生まれ故郷ルイジアナで静かに旅立った。元阪神投手のジーン・バッキー氏が米国時間14日(日本時間15日未明)に死去した。82歳だった。
バッキー氏は今月10日、腹部の右総腸骨動脈瘤(りゅう)の手術を受け、術後の合併症で脳卒中を併発。意識不明の状態が続き、娘ら家族が見守る中、息を引き取った。同氏の三女・スザンヌさんがデイリースポーツの取材に応じ、メッセージを寄せた。
「私たちの父のために、皆さんが祈りをささげてくださったことに感謝します。父は永遠に阪神タイガースの背番号4、バッキーサンです」
初来日は1962年7月。米マイナー3Aのハワイ・アイランダーズとの契約が切れ、ワラをもつかむ気持ちで阪神の入団テストを受けた。制球が不安定だったこともあり、獲得の結論まで約1カ月を要したほど首脳陣は悩んだという。
入団後は投手コーチや小山正明氏(現デイリースポーツ評論家)ら先輩投手のアドバイスも受け、徐々に素質を開花させていった。64年には29勝9敗、防御率1・89で最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。外国人初の沢村賞に輝く大車輪の活躍で、リーグ優勝に貢献した。
今でも語り継がれるのが68年9月18日の大乱闘だ。巨人とのダブルヘッダー第2試合(甲子園)で先発。四回に打席を迎えた王への初球、2球目の内角球を巡り、王がバッキーに詰め寄った。これがきっかけとなり、マウンド上で両軍選手入り乱れての乱闘に。バッキーは乱闘の中で巨人・荒川コーチと殴り合った際に右手親指を複雑骨折した。シーズンオフに阪神を退団して近鉄へ移籍したが、69年は1勝もできずに引退した。
実際の人柄は乱闘のイメージとは程遠かったという。小山氏は「私が知る外国人選手の中でも指折りのナイスガイ。明るい性格で、チームにも日本の生活にもすぐに溶け込んだ」と証言する。球団から外国人選手としての特別待遇は受けず、遠征先ではチームと同じ旅館に泊まり、浴衣を着てチームメートと同じ部屋で枕を並べた。ハシで日本食を食べ、小さな文化住宅に家族で住み、チームにも日本の生活にもすぐになじんだ。
同じように日本野球に溶け込み、自身と同じ阪神で成功したメッセンジャーの活躍を知り、喜んでいた。自身が持つ日本通算100勝の記録に迫っていることについて生前、本紙に取材に対し「私の記録は長い間破られずに来たが、変わる時が来たと感じている。私と同じ国で育ち、同じ球団でプレーするランディに、ぜひ超えてほしい」と話していた。
メッセンジャーは100勝を目前に引退を発表。その決断を知ることなく、バッキー氏は永い眠りについた。
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ジーン・バッキー(Gene Bacque)1937年8月12日生まれ。米国ルイジアナ州出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。62年途中、テスト合格で阪神入団。64年は29勝9敗、防御率1・89の最多勝、最優秀防御率でリーグ優勝に貢献。外国人初の沢村賞も受賞した。65年6月28日・巨人戦(甲子園)でノーヒットノーラン。69年近鉄に移籍したが、0勝7敗に終わり引退した。帰国後は中学、高校で教師を務めた。