宮崎恒彰氏 星野監督のマンパワー「とにかく顔が広い」獲得に発掘、金銭交渉にも尽力
2006年から2年間、阪神の第8代オーナーを務めた宮崎恒彰氏(77)が、デイリースポーツ紙面で激動の日々を振り返ります。02年に取締役としてタイガースに入団。黄金時代の構築に尽力し、村上ファンド問題、30億円問題など、猛虎の危機に立ち会ってきた。
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星野監督就任1年目のシーズンを4位で終えた02年オフ、「人間が資産」と訴えた宮崎氏と星野監督は大改革に乗り出す。計24選手が一気に退団し、新たにFAで広島から金本知憲を獲得。さらにはメジャー挑戦の意志も示していた近鉄・中村紀洋の獲得レースにも参戦する。
米球界でくすぶっていた伊良部秀輝を獲得し、トレードで日本ハムから下柳剛が加入。新外国人はジェフ・ウィリアムスを星野監督独自のルートで発掘。ドラフトでは杉山直久、江草仁貴、久保田智之ら即戦力投手を中心に計11人を指名した。
「とにかく顔が広い。人脈が広い。いろんな人と接しているおかげで、何でもよく知っている。村上ファンドの時も含めて、仙さんにはずいぶん助けられたよね。そない野球人を知っているわけではないけど、あれだけの幅を持った人は珍しいと思ったよ」
独自ルートで選手を見いだし、獲得にこぎつける。宮崎氏は編成面については門外漢だっただけに、「当時、誰か編成に明るい人を呼んでくればいいと言ってたんやけど、それが仙さんやった」単に選手を発掘するだけでなく、金銭交渉も一手に引き受けていた。
「金本を獲得する時でも、『だいたいこれくらいで』と予算の大枠を伝える。その中で収めてくれた。困ったことがあれば、どこかから人脈を探してくれたり。そこはもうマンパワーです」
宮崎氏と星野氏が会っていたのは人目につかない阪神間のホテル。そこで何度も戦略を練り、次々と実行へ移していった。宮崎氏だけでなく、本社も球団も全体で星野監督をバックアップした02年オフ。それが一番の変革点だという。
「仙さんが球団を変えたというか、球団が全力でバックアップするようになったんです。当時のタイガースは老舗球団で古い体質が残っていた。人脈も含めてね。外部から来たナンボのやり手でも、内部の人間は悪い時になると足を引っ張りよるんですわ。それが仙さんがやりやすい環境をつくるようになった。また、そうできる人柄やったんですよね」
迎えた03年シーズン。虎は破竹の快進撃を続けた。4月から一度も首位の座を譲ることなく、7月8日にリーグ史上最速で優勝へのマジックナンバー49が点灯した。オールスターファン投票では阪神の選手が史上最多となる9部門で選出。周囲の空気は18年ぶりの優勝へ、もう疑う余地すらなかったという。そこで宮崎氏は新たな局面へ動き出す。
「当時はやっていたのが、ブランド戦略という言葉。チームを強くしてもらって、どう収益、お金に変えるかは大いに関心があったんでね」
7月、とある大手スーパーマーケットから連絡が入る。その一本の電話が、後に史上初めて神戸&大阪、二大都市での優勝パレード実現へとつながっていく。