【昭和の虎模様】吉田義男を「連れて帰りたい」 MLB首脳がそろって絶賛
今年、球団創設85周年を迎えた阪神タイガース。長い歴史の中では多くの名選手、名勝負が生まれ、数々の“事件”もあった。昭和の時代にデイリースポーツでトラ番を務めた平井隆司元編集局長が、栄光と挫折の歴史を秘話をちりばめ連載で振り返る。
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人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し-。
徳川家康の遺訓のような教えを、吉田義男は京都・山城高1年の時に思い知らされている。
実家は薪炭商。薪の束、炭俵を担いで売り歩いていた。1949年4月。父親が病死した。商いを継いだ母親も、夫の死から4カ月後の9月に急死。薪炭商は兄が引き継ぐ。次男の義男を呼び、兄としての心を伝えた。
「お前は好きな道を歩け。あとのことは心配しなくていい」
好きな道は、色々と迷いもあったにしろ、今、振り返ってもやはり吉田には「野球」が天職だったのだろう。
「山城(高)にええ遊撃手がおるぞ」と町の声はすぐ広がる。阪急が目をつけ、阪神もまた。紆余曲折があり結局、吉田は立命館大に入学した。最終的には阪急も阪神も「背が低い」ということで二の足を踏んだ。
阪神の本命は山城ではなく慶応大にいた。松本豊という名の遊撃手で早大の広岡達朗と並ぶスター選手だった。松本の地元滋賀の実力者が「阪神が欲しいなら仲介する」というので、その話に乗ると、苦もなく入団が内定した。
しかし契約直前、松本が阪神入団を断ってきた。えっ、なんで、何か不服でも?聞けば「婚約している女性の親から“プロ野球みたいな卑しい職業に就くなら破談させてもらう”と言われまして」。松本は女性を取り、阪神を捨てた。阪神松本誕生は幻と消えた。
「吉田君、大学を中退してほしい」
阪神からの強い要望を受け、吉田義男は1953年、プロの世界に飛び込んだ。契約金50万円、月給3万円だった。
吉田にこんな秘話がある。1953年、米大リーグからジャイアンツとMLB選抜が、55年にはヤンキース、翌年にはドジャースが来日。「日米親善野球」で日本が招待して対戦した。試合結果は日本の惨敗でお話にならなかったが、両チームの首脳がそろって「連れて帰りたい選手が一人だけいる」と言った。
「捕球、送球の速さ。フットワークもすばらしい。米国で通じる。使える」と褒めた。
日本人記者が首をひねるのを見て、通訳が答えた。
「阪神タイガースの吉田義男さんですよ」-。=敬称略=
※1953年の物価=大卒初任給(事務職)約9000円、タクシー初乗り80円、たばこ1箱30円、はがき郵便料金5円
◆吉田 義男(よしだ・よしお)1933年7月26日生まれ、86歳。京都府出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。山城高から立命大を経て、53年阪神入団。盗塁王2回、ベストナイン9回。69年現役引退。通算成績は2007試合1864安打66本塁打434打点350盗塁、打率・267。阪神監督を唯一3度務め、2期目の85年には21年ぶりのリーグ制覇と球団史上初の日本一に導いた。92年野球殿堂入り。