食事面から手をつけなければ…藤田平氏、阪神暗黒時代まっただ中の現場復帰

 阪神の暗黒時代、球団や選手に対する厳格な姿勢から「鬼平」と呼ばれた将がいた-。虎生え抜き選手初の名球会打者でもある元監督の藤田平氏(72)=デイリースポーツ評論家=が、1995年に就任した2軍監督時代から1軍監督を途中退任した翌96年までを述懐する。「最悪」と衝撃を受けた現場復帰当初のチーム状態から、新庄正座事件、桧山の4番抜てき、そして深夜にまで及んだ“籠城会談”など激動の虎を振り返る。(文中は敬称略、役職は当時)

  ◇  ◇

 久々に戻ってきた現場の印象は「最悪」だった。藤田平が静かな語り口で当時を述懐する。現役時代は阪神一筋19年。通算2064安打は、鳥谷敬(現ロッテ)が2018年に抜くまで生え抜き選手として球団最多だった。1995年に阪神2軍監督に就任。84年の現役引退から10年の歳月が流れていた。当時、1軍監督だった中村勝広に請われての現場復帰。チームはまさに暗黒時代まっただ中だった。

 「昭和59年(84年)に現役を辞めて、その次の昭和60年にチームは優勝した。それから10年がたっていたわけだけど、チーム状態は最悪だった。それまで評論家として外からチームを見てきた。だけど、外から見るのと中から見るのとでは全然違った。『こんなに悪いのか』と痛切に思った」

 鬼平-。池波正太郎の小説が原作で当時放送されていた人気時代劇「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵と藤田平の『平』の字にちなみ、藤田は「鬼平監督」と呼ばれた。選手やフロントに対する厳格な姿勢と、罪人を厳しく取り締まる火付盗賊改方・長谷川平蔵のイメージが重なった。

 2軍監督として鳴尾浜で選手たちと時間を共にして受けた“衝撃”は、今も忘れられない。まず個々の技術レベル…という次元の話ではなかった。

 「弱いチームは、たるんでいるから。そういうところ(グラウンド外の生活部分)から手をつけなければいけなかった。そういうところから手をつけなければいけないというのは残念だった」

 この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生。自宅が半壊した藤田は鳴尾浜の「虎風荘」で若手選手らと共に生活していた。

 “あの光景”は鮮明に覚えている。寮での生活を始めて、しばらくたった頃。ゴミ置き場の脇に“何か”が山積みになっている…。確認してみると、カップラーメンの空箱の山だった。

 「まず、(寮の食事が)ヒドかった。武庫川女子大の教授に頼んで、食事のメニューを見てもらったら『老人や病人が食べるようなメニューです』って」

 栄養バランスが十分ではない献立だけでなく、量も問題だったという。「(藤田自身も練習中に)腹が減ったくらいだから、選手はもっと空腹になる。カップ麺の空箱が山盛りになっていたけど、(選手は食事が)足りないからコンビニに行っていたわけ」。球団に自ら掛け合ったこともある。「寮の食事を食べたことがありますか?」と改善を求めたのだ。

 巨人や近鉄など5球団で指揮を執った三原脩が食事面を重要視していたことにもならって、武庫川女子大の関係者から助言を仰ぎ食事メニューを改善。ウエスタン・リーグの試合では、ダイエーや広島の球団関係者にも聞き回った。

 「広島は(独立採算球団で)お金が限られる中でもいっぱい食べさせていた」。今では当たり前だが、練習の合間でも口に運べるバナナやリンゴ、軽食を練習施設に常備させたのはこの頃からだった。藤田が1軍監督を退いたのは96年。それから約1年後、選手たちから「食事がよくなりました」と感謝の言葉を受けることになる。

 ただ、頭を悩ませたのは食事だけではない。加えて当時、練習に遅刻する選手が続出していた。あれは7月下旬。藤田にとって2軍監督としての最後の日に“あの出来事”が起こる。

 ◆藤田 平(ふじた・たいら)1947年10月19日生まれ、72歳。和歌山県出身。現役時代は右投げ左打ちの内野手。市立和歌山商(現市立和歌山)から65年度ドラフト2位で阪神入団。通算2064安打は阪神歴代2位。首位打者・最多安打各1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞3回。通算成績は2010試合207本塁打802打点、打率.286。

 84年現役引退後、95年に阪神2軍監督から1軍監督代行。96年に監督就任したが、シーズン途中で退任。監督通算成績は170試合65勝105敗、勝率.382。現デイリースポーツ評論家。

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