藤田平氏、納得できなかった…まさかの“解任通告” 約9時間半に及んだ“籠城会談”
阪神の暗黒時代、球団や選手に対する厳格な姿勢から「鬼平」と呼ばれた将がいた-。虎生え抜き選手初の名球会打者でもある元監督の藤田平氏(72)=デイリースポーツ評論家=が、1995年に就任した2軍監督時代から1軍監督を途中退任した翌96年までを述懐する。「最悪」と衝撃を受けた現場復帰当初のチーム状態から、新庄正座事件、桧山の4番抜てき、そして深夜にまで及んだ“籠城会談”など激動の虎を振り返る。(文中は敬称略、役職は当時)
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席を外されたのは3度だったと記憶している。約9時間半に及んだ“籠城会談”は、1996年9月12日。遠征先の横浜への移動前だった。
藤田は三好一彦球団社長から連絡を受け球団事務所へ赴く。そこで突きつけられたのは“解任通告”。久万俊二郎オーナーから翌年への期待の言葉も受けていただけに受け入れられない。午後5時から始まった話し合いは日をまたぎ、深夜2時半まで続いた。
「三好さんから『(監督を)退いてくれ』と。途中、三好さんは3回席を外した。(会談での)やり取りを電話で(久万オーナーに)話したりしてたんだと思う。こちらとしては『(回りくどいから)3人で話しましょう』と言ったけど、オーナーも出にくかったんやろうな。こちらは、ある人を通じて『来年も』と聞いていたし」
第三者を通じてだが“続投”と聞いていた。「久万オーナーと月に1回は会っていた。手塚さんと3人で」。当時、電鉄本社社長で後に久万の後を受け球団オーナーに就く手塚昌利を交えての会談。球団側とは翌シーズンに向けた意見も交わしていた。
「おれ、辞める会見してないんや」。どうしても納得できなかった。だから応じなかった。三好と会談した12日には報道陣が集められ「藤田退任」の発表会見が行われる予定だった。だが三好との会談で決着が付かず、改めて翌13日に会見が開かれる。
その際、藤田は三好から会見同席を求められたが「こちらは何の記者会見も分からなかったし帰った。納得してなかったし」。この日から藤田は休養に入る。
我慢が続いた96年。補強といえば金銭トレードで加入した平塚克洋くらいだった。前年から在籍したグレンとクールボーの両外国人選手は6月に退団。それに伴い野手でクレイグとマースを獲得したものの、結果は出なかった。
チームの不振に不満を持つファンと、移動の新幹線で対話したこともある。「『話がある』、というので『それでは話をしましょう』と」。立て直しに懸命だった。
「中村吉右衛門のが好きなんや」。時代劇専門チャンネルで再放送されていた「鬼平犯科帳」を、たまたま目にしたのは2019年6月。確かその時は、高山俊や近本光司への期待の言葉を口にしながらの視聴だった。チームを論じる際は熱を帯びる。ただ、若手選手の話題には、語りかけるような口調になることがある。
「たくさんのお客さんが来てくれる幸せな球団だけど、それに甘えてはいけない。プロ野球選手は、自分の体ではあるけれど、同時に自分だけの体ではない。お客さんがいて食事、生活ができているんだから」
劇中の長谷川平蔵は穏やかな人柄ながら仕事に対して厳格な人物像だ。厳しく聞こえる選手や球団への物言いは、タイガースの繁栄を願ってのこと。その思いは今も変わらない。(敬称略)=おわり=
◆藤田 平(ふじた・たいら)1947年10月19日生まれ、72歳。和歌山県出身。現役時代は右投げ左打ちの内野手。市立和歌山商(現市立和歌山)から65年度ドラフト2位で阪神入団。通算2064安打は阪神歴代2位。首位打者・最多安打各1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞3回。通算成績は2010試合207本塁打802打点、打率・286。
84年現役引退後、95年に阪神2軍監督から1軍監督代行。96年に監督就任したが、シーズン途中で退任。監督通算成績は170試合65勝105敗、勝率・382。現デイリースポーツ評論家。