日本一前夜 広岡監督の心理作戦に動揺する吉田監督を電話でなだめた元阪神社長語る(7)
元阪神球団社長の三好一彦氏(90)が、かつて全力を注いだ球団経営を振り返り、今に伝え遺す阪神昔話「三好一彦の遺言」の第7話は「日本一前夜」。西武との“決着”を控えた吉田監督の心の動きが「三好文書」からうかがえる。
阪神が日本一になったのは後にも先にも1985年の1度しかない。監督としては吉田義男が唯一の経験者ということになる。
その2年後には最下位。天国から地獄へ。シャレで名付けた「天地会」にはかつて三好も参加していた。
21年ぶりのリーグ優勝から一気に頂点へ駆け上った、この年の西武との日本シリーズを三好は鮮明に記憶している。
またそれは表紙に「三好文書」と書いた分厚いノートにも克明に記されていた。そこから吉田の心の内を垣間見ることができる。
◆昭和60年11月1日(金)
日本シリーズ第6戦前日 立川の吉田監督とTel※写真参照
3勝2敗で敵地・西武球場へ乗り込む前夜のことだった。王手をかけているのに吉田はなぜか動揺していた。
三好「(球団職員から)決戦を前に監督が入れ込みすぎて落ち着きがないから、話をしてあげてほしいと言われてね。本人に電話したんです」
どうやら広岡監督が“2勝3敗は計算通りで6、7戦を所沢で勝って決着をつける”とマスコミに話しているという。この陽動作戦に吉田の心が乱され、イラついている様子だった。
三好「それは相手が自分の焦りを隠すために言ってるだけ。心配せず普通に戦えばいいと伝えました。“あすどこで見てくれはりますか”と言うから、急きょ向かうことにしたんです」
シーズン中、強気の吉田には選手起用に無理や焦りが出て墓穴を掘ることがあった。それだけが不安だった。
翌2日、早朝の移動で西武球場へ駆けつけ、三塁側の上段に座った。ローテーション通りゲイルが先発。安心した。
初回、長崎の逆風を切り裂く右翼への満塁本塁打が飛び出し、早々と三好は6戦目での決着を確信した。
たばこに火がつかないほどの強風だった。
その夜、東京・立川で開かれた関係者の祝勝会には出席せず、トンボ帰りで自宅へ戻った。
その道中の西武電車の中、池袋、新大阪駅。「勝った勝った、また勝った」の勝ちどきが響きわたり、お祭り騒ぎが続いたことを「今でも目に浮かぶ、忘れられない光景」と懐かしむ。
三好はかつて2度にわたり、吉田の阪神監督招聘にかかわっている。最初は84年のオフだった。
安藤統夫が突然、監督を辞任。オーナー代行だった久万は西本幸雄を後任候補とし直接交渉を行ったが、不調に終わった。
その際、「阪神OBの方がいいのでは」という西本からのアドバイスもあり、監督経験のある吉田に白羽の矢が立った。
三好「久万からは、次は吉田に絞った。君なら知ってるだろう。代わりに要請してこいと言われました」
三好が神戸大4年、吉田が立命大1年のときに、関西六大学野球で同じボールを追いかけた。三好が阪神電鉄に入社した53年に吉田もタイガースへ入団。2人には浅からぬ縁があった。
三好「(吉田は)1回目に監督をした時に嫌な思いをしたようで、渋ってました。最後は“三好さん、僕についてくれますか?それならやらせてもらいます”という返事でした。私は水面下でのバックアップを約束しました」
1975年から3年間、吉田は監督としてチームを率い3位、2位、4位。最後はV逸の責任を取って辞めている。再び苦労するのは目に見えていた。
三好「(監督就任後は)毎日のように電話をしていたし、10日に1度は直接会って打ち合わせをした」
ホテル阪神の客室として使用できない、窓のない部屋が会談専用の場所だった。
以後、意思疎通を図り続けた。そのやりとりを綴ったのが「三好文書」だった。
日本一をピークに吉田の運勢は下降し始める。翌年3位。87年は最下位に沈んだ。
三好は97、98年にも吉田を監督として迎えている。阪神で3度監督を務めた人物も吉田しかいない。
チーム救済の切り札として期待したが、バース、掛布、岡田、真弓のような選手はもういなかった。
98年のシーズンオフ、吉田の退任とともに三好も球団を去った。あれから23年。今でも吉田を「同志」と呼ぶ。
会えば「監督」「社長」の間柄は変わっていない。(敬称略/宮田匡二)